素肌と聖痕――クリント・イーストウッド『ブラッド・ワーク』

蓮實重彦

クリント・イーストウッドの作品は、素肌が露呈される瞬間にクライマックスを迎える。素肌といっても、女性のエロチックな肉体ではない。女性たちは、むしろ、彼の引き締まった肉体の素肌をもてあそぶ側にまわっている。それも、愛撫へと向かう湿った指先や唇でではなく、もっぱら刃物で素肌を一気に切り裂くのがイーストウッドにおける女性の役割にほかならない。これは、彼の師といってよいドナルド・シーゲル監督の『白い肌の異常な夜』(1971)に負傷した南軍兵士役として出演して以来、一貫したイーストウッド的な主題をかたちづくっている。男性の肌のもろさとその表層に残される傷跡というモチーフは、監督としての処女作『恐怖のメロディ』(71)に着実にうけつがれ、以降、新作の『ブラッド・ワーク』(2002)にいたるまで、豊かな表情で彼の作品を彩ることになるだろう。

実際、クリント・イーストウッドほど、皮膚という肉体の神経過敏な表層に残された傷跡を執拗に描き続けた映画作家は存在しない。『荒野のストレンジャー』(1973)の背中の鞭の跡、『ペイルライダー』(85)の背中にうがたれた無数の弾痕、『許されざる者』(92)の顔の傷、等々、数え上げればきりがなかろうが、その凛々しい立ち姿にもかかわらず、彼の素肌は無惨な傷跡を素肌にとどめている。それは、彼の作品で主役を演じることを許された者の誇るべき「聖痕=スティグマ」にほかならない。それぞれの役柄にふさわしい衣装の下には、きまって聖なる傷跡が隠されており、それをいつ目にするのかが、イーストウッドの作品を見る者につきまとうサスペンスとなるだろう。『恐怖のメロディ』の人気ディスクジョッキーであろうと、『ペイルライダー』の幽霊のようなガンマンであろうと、『ブラッド・ワーク』の元FBI捜査官であろうと、事態にいっさい変化はない。男の暴行で頬に無惨な切り傷をつけられた娼婦と、その復讐のために雇われ、したたかに顔に傷を負うことになる元殺し屋の農夫とが、いわば「聖痕=スティグマ」の共有を通して愛し合う『許されざる者』が典型的だろうが、イーストウッドの活劇のほとんどは、素肌に傷跡を隠し持つ者だけに許された復讐の物語なのである。

新作の『ブラッド・ワーク』で、胸元の心臓移植手術のいかにも派手な切り跡を俳優イーストウッドが誇示してみせるとき、人びとは、この映画作家の主題論的な一貫性に改めて驚く。これほどこれ見よがしに刻みつけられた「聖痕=スティグマ」など、ハリウッドの人気スターの肉体の表層に誰も認めたことのないものだからである。ところが、その心臓移植手術を執刀したのは、女性の主治医のアンジェリカ・ヒューストンだという。彼女の名声からしても、また崩れる直前にまで熟れきったその容貌からしても、役に不足はない。彼女は、何やら楽しげに、裸のイーストウッドの首の脇から細いチューブを体内に挿入し、心臓の拒絶反応の有無を検証したりする。だが、そこに密かな楽しみを見いだしているのが彼女だと思うのは間違っている。アンジェリカのような女性にメスで胸を切り裂かれるという設定の男を演じている当のイーストウッドが、その状況にえもいわれぬ快感を味わっているからである。すでに初期作品からわかっていたことだが、映画作家としてのイーストウッドは、語の正統的な意味における「変態」なのだ。

だが、彼の撮る映画は、例えばルイス・ブニュエルのような「変態的」な作品の表情におさまることはない。それは、彼が選ばれた「聖痕=スティグマ」の持ち主だからにほかならない。実際、イーストウッドが演じる男たちは、あたかもキリストのように、傷を境に二つの異なる生涯を生きている。『許されざる者』の元殺し屋の農夫のように、彼らは、あるとき血なまぐさい暴力の世界からいったん身を引く決意をかため、日常の平穏さへと引きこもる。『ブラッド・ワーク』の元FBI捜査官も、心臓の移植手術後は、港に係留されたヨットに居を定め、のんびりと暮らす身である。だが、不可視の「聖痕=スティグマ」に引き寄せられるように女が訪れ、思いもかけぬ復讐を依頼する。その女たちは、『ペイルライダー』の少女、『許されざる者』の娼婦、あるいは『ブラッド・ワーク』のヒスパニックの女性のように、いつでも社会のマイノリティーに属する者たちである。『ブラッド・ワーク』で起こっているのは、だから『許されざる者』に起きたのとまったく同じできごとなのだ。小津安二郎やジョン・フォード、あるいはハワード・ホークスのような優れた映画作家には、必ずこうした主題論的な一貫性が存在する。あたかも巨匠たちを模倣するかのように、イーストウッドもまた、いつの間にか同じ物語を撮り始めている。

『ブラッド・ワーク』のクライマックス、それは、犯人と思われる男性に、上半身の素肌を見せろとイーストウッドがせまる瞬間である。物語の流れからすれば、かつて自分が追いつめ、心臓発作に転倒しつつも必死に放った拳銃がその肉体に傷をつけた男かどうかを確かめる意図があったと理解しておけばよい場面である。だが、イーストウッド的な主題体系からすれば、元FBI捜査官は、ごく単純に「聖痕=スティグマ」の有無を問うていたのである。相手は自分と異なり傷跡を持たぬ存在だったのだが、それは、彼にとって、躊躇なく殺してよい対象であることを意味している。そのとき、傷跡を素肌に刻みつけた男イーストウッドの勝利が確立するのだが、人は、その主題論的な体系の確かな作動ぶりに、率直な驚きを覚えねばならない。
 

初出:松竹パンフレット、2002年

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