エリック・ロメール『グレースと公爵』――高貴さと卑猥さの嘘のような均衡

蓮實重彦

あられもない振る舞いだけがふと高貴さをのぞかせることがある。そうつぶやきながら、それが露呈される瞬間だけにキャメラを向け続けてきたのが、今年[2002]で82歳になる映画作家エリック・ロメールである。実際、彼の作品では、誰が見てもここで抱擁しあってはならないはずの成熟した男女が堂々と唇を求めあったりしながら(『恋の秋』[1998]を見よ)、そのあやうい状況は間違っても悲劇に行きつくことがない。それをあたかも自然な成り行きであるかに日常化してみせること。それがロメールの倒錯的なフィクションにほかならない。

1960年代いらい、ロメールは、「六つの教訓」「喜劇とことわざ」「四つの季節」などのシリーズを通して、好んで海辺の避暑地を舞台としながら、あと一歩で卑猥さの側に滑り落ちかねない愛の遊戯に視線をそそいできた。そこでは、高貴さと卑猥さが嘘のような均衡におさまり、フィクションとしか思えぬ「透明さ」で画面を震わせている。いつ崩れても不思議でないこの均衡が、ヒッチコックにさえ想像できなかった未知のサスペンスを映画に導入したことは、誰もが知っていることだろう。危険ではなく、その不在が煽りたてるサスペンス……。一度ロメールを見たら誰もが癖になるのはそのためである。

そんなロメールが、80歳という高齢を迎えようとするとき、コンピュータ・グラフィックを駆使してフランス革命期のパリを大がかりに再現し、そこにイギリス女性グレースを登場させてみる。映画は、この異国女性による回想録の忠実な翻案であり、いつもの休暇中の男女の戯れとはおよそ異質の世界が浮上してくる。何しろ、彼女がサロンでもてなすのは、れっきとした歴史上の人物オルレアン公その人なのだ。王家の血を引きながら従兄のルイ16世の処刑に進んで賛成したりした、あまり評判のよくない人物である。かつてはかなりきわどい関係にありながら、いまでは唇を求めあうほどの仲でもなくなっている二人だが、ときおり思い出したように出会うことの快楽だけはまだ放棄していない。

現代の避暑地における男女の遭遇から、革命期の歴史的な男女の邂逅へ。このロメールの変貌ぶりはいったい何なのかと誰もが驚かずにはいられない。これをライフワークとする野心を隠しながら、あえてミニマリズムに徹してきたというのだろうか。だが、そこに再現されたパリが、精巧にして華麗な背景というより、むしろ素朴な筆つかいで描かれた舞台装置のように見えてしまうことに、人はほっと胸をなでおろす。いかにもそれらしく再現された『グラディエイター』(2000)の古代ローマ帝国のコロセアムより、『グレースと公爵』に登場する「恐怖政治」時代のフランスの首都の表情のほうが、遥かにフィクションめいて見えるからだ。「真実」が、その種のフィクションを介してしか顕現しないことに、ロメールは充分すぎるほど意識的なのである。

すべては、趣味のよいクッキー入りの箱を彩る風景画のような構図の中で起こる。革命後の十数年を時代背景としながらも、そこでは「自由、博愛、平等」が叫ばれることも、「人権宣言」が謳歌されることもない。三色旗も翻らないし、「ラ・マルセイエーズ」さえ聞こえてはこない。オルレアン公が距離をたもちつつも同調している革命派に対して、グレースはまったくもって冷淡であり、並木道や広場を埋めつくす群衆も、貴族の首を切ることにしか熱狂しえない愚かな暴徒として、彼女の顔をそむけさせるばかりだ。人びとがフランス革命として知っている挿話など、この風景画には一つとして描かれてはいない。

グレースは、何が起ころうと、自分自身はいうにおよばず、親しい交渉をもつ上層階級の人びとの身分をいっときも疑ってみたりはしない。その揺るぎない確信において、彼女は、オルレアン公をはじめ、まわりの男たちにことごとく凡庸な策謀家の風貌をおびさせてしまう。そのグレースを演じるイギリス女優のリュシー・ラッセルが素晴らしい。その素晴らしさは、例えば『エリザベス』(1998)ではなく『ギフト』(2000)のケイト・ブランシェットのようだといえばよいだろうか。自分の予知能力だけを信じる南部女性に徹したこのオーストラリア女優のように、ここでのリュシー・ラッセルは、オルレアン公を演じる芸達者のジャン=クロード・ドレフュスをたじろがせるほどの迫力で、「手のつけられない王党派」として堂々と画面を横切ってゆく。いったい、何が彼女の毅然たる姿勢を支えているのか。

この世界には、目をそむけずにはいられない事態が着実に進行している。革命さえがまぬがれえないその醜悪さから瞳をそむけるには、その至近距離で生きねばならないだろう。そう自分に言い聞かせたとき、あられもない振る舞いだけが露呈せしめる高貴さが、奇跡のように彼女を恩寵でつつむ。実際、彼女は、ルイ16世の処刑現場に向けられた望遠鏡をしりぞけ、逮捕された彼女をなぜか解放するロベスピエールの処刑にも、かつては愛しあったオルレアン公の処刑にも立ち会いはしない。投獄されながらも偶然に処刑をまぬかれた彼女は、書き残した回想録を二百年後のロメールの手に託したとき、初めて微笑む。

そんな異国の女性の革命体験を描く『グレースと公爵』は、フランス革命批判をめざしているのだろうか。事態はより微妙な水準に推移する。グレースが外国人で、しかも女性だったという意味で、革命が奇妙な価値下落をこうむるのは間違いのない事実である。「自由、博愛、平等」に名をかりた大量殺戮から目をそむけていたい彼女は、遠ざかるのではなく、みずからその渦中に身を置くことで奇跡的にそれに成功する。その卑猥さと高貴さとのあやうい均衡に胸をつかれることなく、王党派グレースの振る舞いと、彼女にキャメラを向けるエリック・ロメールの姿勢とを「反動的」と呼ぶ鈍感な精神にとってのみ、これはフランス革命批判の映画として機能するだろう。だが、これが何かを批判しているとしたら、それはまぎれもなく映画そのものにほかならない。
 

初出:『Invitation』創刊0号/ぴあ/2002年

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