アレクサンドル・ソクーロフ『エルミタージュ幻想』――歴史の迷路の中で

蓮實重彦

出会うはずもない二人の男が、たまたま同じ時刻に、同じ迷路に踏みまどう。歴史と呼ばれる時間の迷路である。着飾った男女の群にまぎれて暗がりの細い階段を抜けると、いきなり女帝エカテリーナの豊満な姿が見えたりするのだから、どうやらここは18世紀ロシアの宮殿であるらしい。とするなら、二人がさ迷っているのは、かつてピヨトル大帝が暴虐の限りをつくし、エカテリーナが西欧美術の粋で飾り立て、1917年の十月革命の舞台装置ともなり、レニングラードと呼ばれた時代にナチス・ドイツの砲撃でその一部が破壊され、今日ではエルミタージュ美術館として名高いあのサンクト・ペテルブルグの壮大な歴史的空間の内部なのだろうか。

瞳を見開いても何も見えないとつぶやいている声は、アレクサンドル・ソクーロフ自身のものらしい。ヒットラー(『モレク神』[1999])とレーニン(『牡牛座』[2000])のきわめて個人的な肖像を描いて世界を驚かせた映画作家は、いま、20世紀を離れ、いきなりロマノフ王朝数世紀の時間の襞に迷いこんでしまったのだろうか。画面には姿を見せぬソクーロフに手招きを送る黒衣の男は、臆することもなく広間から広間へと滑りこみ、壁面を飾る豪華な美術品に懐かしげな視線を送り、レンブラントの前で言葉もなく頭をたれ、晩餐を準備する大広間で色鮮やかな食器に目を奪われ、今日の観衆たちが名画に見入っている会場では、美術館長その人と出会ったりする。19世紀の初頭に外交官としてサンクト・ペテルブルグに滞在したことのあるこのフランス人は、みずからを幽霊だとも意識せぬまま、こうして、ここを舞台に演じられたロシア史の決定的な瞬間に立ち会う。もちろん、美術品に目のない彼は、自分が、カンヌ国際映画祭で絶賛された『エルミタージュ幻想』(2002)の虚構の登場人物であることさえ知らずに振る舞っている。

墓からよみがえった異邦人の気ままな足取りを追うソクーロフのキャメラは、まばたき一つですべてを見失うことを怖れているかのように、ひたすらな移動撮影で歴史の迷路をゆるやかに滑り抜ける。フィルムにも、ヴィデオにもかなわなかった90分をたった一つのショットで撮るという途方もない夢――それはヒッチコックの夢でもあった――はハードディスクの改良によって可能とはなったが、作者はその夢がたやすく実現されようとはまだ信じていない。編集が回避され、撮り直しのきかないたった一度の撮影で作品を完成させるという舞台裏のアクロバットが画面から透けて見えれば、その時点で歴史は退屈な活人画と化し、誘惑する迷路であることをやめてしまうからだ。

デジタル・テクノロジーの革新を信頼しつつ、そのみだりな顕示を自粛することで、ソクーロフは、歴史の存在しないアメリカの映画が忘れてしまった絢爛豪華さをスクリーンに炸裂させ、同時に、絢爛豪華であることの限界を見る者に強く意識させる。確かに、グリンカのマズルカにあわせてくりひろげられる大舞踏会は、目を見はるしかない華麗さにおさまっている。だが、それが終わって帰途につく多くの招待客がゆっくりと長い階段をおりてゆく「宴の後」の時間によりそうキャメラの執拗な持続が、ただごととは思えぬ豊かな時間を作品に導き入れる。かくして、映画は、『エルミタージュ幻想』とともに、初めて終わりを描くことに成功する。

いま視界から遠ざかったばかりのかつての栄華が、ひたすらに哀惜されているのではない。すべてはむなしいと詠嘆されているのでもない。そこでは、何ごとかの終わりを肯定するのにふさわしい時間が、未知の生なましさでスクリーンを占拠している。それは、歴史の迷路にふと踏みまどった二人の男――歴史上の異人と現在のロシアの映画作家――が、二度と出会わずにすむために必要な儀式であるはずだ。まばたきもせぬまますべてを撮り終えたソクーロフは、何ごとにつけ「終わり」の一語を気軽に口にしてはならぬと、低く、だが心に触れる声でつぶやいている。

 

初出:『中日新聞』2003年4月12日号

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