エリア・スレイマン『D.I.』――「茫然自失」に乾杯!

蓮實重彦

始末に負えぬ物騒な映画が封切られる。何しろ、「吃驚仰天」だの「抱腹絶倒」だの「茫然自失」だのといった四字熟語にふさわしい事態がその硬質な語感から軽々と身をひるがえし、つるべうちのギャグとして、「縦横無尽」にスクリーンに炸裂しているからだ。

久しく映画で「吃驚仰天」したことのない人は、だまされたと思って、エリア・スレイマン監督の『D.I.』(2002)を見に劇場へとかけつけてほしい。しばらく「抱腹絶倒」した記憶のない人も、「茫然自失」した記憶のない人も、手をたずさえて劇場にかけつけねばならぬ。「吃驚仰天」したり、「抱腹絶倒」したり、「茫然自失」してばかりしていると勝手に思いこんでいる人たちも、この義務から自由ではない。その熟語の意味を自分は勘違いしていたと思い知らされること必定だからである。スピルバーグの『A.I.』なら見たという人も、エリア・スレイマンというあまり聞き慣れぬ名前の監督の『D.I.』を見に行くことで、三つの四字熟語にふさわしい事態の擁護こそ、映画の誇るべき特権にほかならぬとその目で確かめてほしい。それの失敗がスピルバーグに何を自粛させているかを、如実に思い出させてくれるからだ。

もっとも、「抱腹絶倒」という程度のことであれば、アカデミー賞までもらってしまったマイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002)にも可能である。『D.I.』が何とも物騒なのは、この三つの四字熟語にふさわしい状況が、ギャグとしていっせいに炸裂するところにある。それが惹き起こす乾いた笑いを性急に「ナンセンス」と呼べないのは、定義にはおさまりがたい無数の「意味」がわれがちに浮上してしまうからだ。その開かれた「意味」と、この映画の主演者でもある監督自身は、ごく真剣な表情で戯れてみせる。チャップリンやジャック・タチのように、スレイマンは自作自演の映画を撮る才人なのだ。台詞を口にしないマルクス兄弟のハーポをふと思わせる瞬間もないではないが、その「傍若無人」な振る舞いを無言で抑制しているところなど、むしろキートンに似ている。ウッディ・アレンなら饒舌でかわそうとする錯綜した状況を沈黙によって耐え、それに新たな映画的形式さえ与えてみせるというのだから、これはまったくもってあなどりがたい才能の持ち主だといわねばならぬ。

あまり聞き慣れぬ名前だとつい書いてしまったけれど、本年とって43歳のエリア・スレイマン、まったく無名の存在ではない。それどころか、昨年(2002年)のカンヌ国際映画祭では審査員賞と国際批評家連盟賞とをダブル受賞しており、しかも、処女長編の『消滅の年代記』(1996)では、1996年のヴェネチア国際映画祭の新人賞まで受賞してしまったのだから、この新鋭、今年のベルリンで無視された『たそがれ清兵衛』(2002)の山田洋次などより、遥かに高い国際的な名声の持ち主なのだ。海外の名高い映画雑誌のいくつかはすでにこの監督の特集を組み、かなりの数の信頼の置ける批評家たちも昨年の年間ベストテンに選んでいる。とはいえ、その種の「国際的世論」の動向を無視するのが「現実的」な選択だと思いこんでいる首相を持つ日本においては、それはひとまずどうでもよろしい。映画館で誰に気兼ねもせずに「吃驚仰天」し、「抱腹絶倒」し、「茫然自失」できるという好機が訪れたのだから、それを回避する理由は存在しない。そう自分に言い聞かせておけば、それで充分である。

スレイマン監督の生まれはナザレ。イエスがその生涯の重要な一時期をすごしたあのナザレである。国籍は、一応、イスラエル。一応と書いたのは、それが、彼の場合はほとんど何ごとをも意味しないからだ。確かにイスラエルのパスポートを持ってはいるが、それは彼自身の選択によるものではない。しかも、イスラエル占領地区の住民として余儀なくその国籍を受け入れている彼の両親は、キリスト教徒である。すなわち、彼は、ユダヤ教徒でも、イスラム教徒でもなく、れっきとしたアラブ系一族の子弟なのである。

パレスチナと聞けば、誰もが「難民」を想起し、「悲惨な」と口にすれば義務をはたせたつもりになりがちな硬直した世界を、この作品は思い切り笑いとばしてみせる。実際、宗教的にも人種的にも複雑きわまりないこの紛争地帯からコメディが世界に向けて発信されたことに、「深い驚きを禁じえない」などといっている場合ではないのである。細部を語ればギャグが割れるのでさしひかえるしかないが、ジャン=リュック・ゴダールの未完に終わった『勝利まで』で正面から見据えられた美貌の女性革命戦士が、ここではハイウェイ脇の広告塔から嘘のように抜け出し、チャウ・シンシーの『小林サッカー』(2001)顔負けの大袈裟な振り付けで宙を舞い、イスラエルの狙撃部隊を翻弄してみせるあたりの人を喰った呼吸は、鈴木清順的とさえいえようか。

顔の筋肉一つ動かさぬエリア・スレイマンの無表情と頑ななまでの沈黙を、「抑圧された」者の象徴などと勘違いするのはやめにしよう。西欧化されたユーセフ・シャイーンでさえ戯れてみせるアラブ圏映画独特の肉感性の不在を、「奪われた」者の悲しみなどと思いこむのもやめにしよう。『D.I.』は、ハイヒールの似合う女性が踵を響かせて舗道を闊歩すれば、パリやニューヨークはいうにおよばず、イスラエル軍検問所の兵士でさえそれに見とれねばならぬという映画の「遊戯の規則」を、シニカルな諦念なしに擁護している。ナザレの人々の日々の滑稽な確執を、たった一つのアプリコットを凶器として一気に革命闘争へと変容させてしまうエリア・スレイマンの登場に「茫然自失」し、そして乾杯!
 

初出:『Invitation』2003年5月号(創刊3号)

Copyright (c) HASUMI Shiguehiko & MUBE