「現実的」という罠について

蓮實重彦

20世紀の初めにフランスの哲学者アンリ・ベルクソンによって指摘されたことですが、質の問題と量の問題との混同は、知性にとってもっとも恥ずべき錯誤の一つであります。ところが、その錯誤は、ほとんど思考の宿命であるかのように、21世紀に持ち越されてしまいました。あらゆるものを量の問題として考えておいた方がより「現実的」だという理由で、質の問題が思考の地平から遠ざけられてしまいがちなのです。わたくしは、そうした現象を「近代のペシミズム」と呼んでいますが、それは、いま、大学の機能をも着実に蝕んでいます。

例えば、「数多く引用される論文は優れた論文だ」という評価の基準がいまではグローバライズされています。もちろん、これは、原因と結果を取り違えた、非論理的な発想だというほかはありません。論文の質が高いから引用される頻度が高くなるのであり、その逆ではないからです。ところが、被引用数の相対的な多さが、その論文の質を保証するかのように事態は進展している。これは、何とも嘆かわしい知性の錯誤というほかはありません。ところが、いったん評価ということが問題になると、その嘆かわしさはあっさり忘却され、錯誤が常態化されてしまう。これが「近代のペシミズム」の実態にほかなりません。

いうまでもなく、科学における普遍的な価値としての「真」は、多くの賛同者をうることで形成されるコンセンサスとしての相対的な価値ではありません。相対的に多くの賛同者をうることは、あくまで優れた論文のもたらす結果にすぎず、それが優れていることの原因ではありません。それは、誰もが知っていることでありながら、そうすることがより「現実的」な解決法だという理由で、質の問題が、あっさり量の問題に置き換えられてしまう。この「現実的」であることの陥りがちな罠が、社会からその知的な活力を奪っている。社会が、質を思考することを放棄しているからにほかなりません。

「現実的」な解決法が珍重されるのは、政治の世界です。そこでは原理は軽視され、多くの賛同者をうることで形成されるコンセンサスとしての相対的な価値ばかりが重視されます。「現実的」であるには、社会的な通念にさからわぬことが求められるからです。だが、この社会的な通念というやつは、株式市場がそうであるように、いつでも変化する。であるが故に、相対的な価値しか持ちえないのです。その相対的な価値の変動にひたすら敏感であることは、真の意味で「現実的」なのでしょうか。質の問題は、いたるところで量の問題に置き換えられるしかないのでしょうか。21世紀の人類が直面しているのは、そうした問題にほかなりません。日本社会は、その解決に有効な手段をはたして持っているのでしょうか。

2003年7月

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