この「ネオコン」派の西部劇を侮ってはならない
――レス・メイフィールド『アメリカン・アウトロー』

蓮實重彦

クリント・イーストウッド(『許されざる者』92)の後で西部劇を撮るからには、それなりの覚悟が要求される。しかも、ヘンリー・キング(『地獄への道』39)、フリッツ・ラング(『地獄への逆襲』40)、ニコラス・レイ(『無法の王者ジェシー・ジェイムス』57)、バット・ベティカー(『今は死ぬときだ』70)といった錚々たるハリウッドの監督たちがそれぞれに描いてみせたジェシー・ジェイムスに改めてキャメラを向けようとするからには、それなりの野心も必要とされよう。実際、同じ顔ぶれの若いアウトローが活躍するフィリップ・カウフマンの『ミネソタ大強盗団』(72)にはある種の批評意識がみなぎっていたし、それには劣るウォルター・ヒルの『ロング・ライダーズ』(80)にさえ、それなりの心意気が感じられたものだ。

ところが、2000年という世紀の境目にあえて19世紀的ヒーローを登場させた『アメリカン・アウトロー』(00)のレス・メイフィールドは、イーストウッド以後に西部劇を撮ることの覚悟などこれっぽっちもいだいていそうにない。野心はいうまでもなく、批評意識も、心意気も、彼にはまったくといってよいほど感じられないのである。『フラバー』(97)を芸もなくリメークしたこの監督は、同じアメリカの若手作家でありながら、確かな歴史意識と細心な演出設計で『エデンより彼方に』を撮りあげたトッド・ヘインズなどとはおそよ異質の環境に暮らしているのだろう。

にもかかわらず、アメリカ映画にも、この世界にも歴史など存在するはずがないというかのごときほとんど愚鈍さと境を接した自意識の不在が、レス・メイフィールドに奇妙な強靱さを保証している。何とも皮肉なことに、ジョージ・ルーカスの15年後に南カリフォルニア大学映画学科を卒業したこの監督には、裏返しの批評性さえ感じられるのである。おそらく無意識のものだろうその批評性は、一本のアメリカ映画を撮るのに、野心だの、批評意識だの、心意気だのといったものはいっさい不要だという態度表明となって、この季節はずれの西部劇を爽やかに貫いている。必要とされるのは作家の「個性」などではなく、物語であり、それにふさわしい俳優だというのが、レス・メイフィールドの依拠する唯一の原則である。ふと記憶に残るような画面や、描かれている以上の何かを語ってしまいそうな場面など、いっさい撮るにはおよばない。ちっぽけなブラウン管でも人物が識別できる程度のクローズアップを基調としながら、そのつどクライマックスをそなえた挿話を五つか六つ組み合わせれば、それだけで映画は充分に成立する。そう自分にいい聞かせながら、彼はすべての要素を95分の上映時間におさめてみせる。『アメリカン・アウトロー』の貴重な批評性は、この百分にみたない上映時間に潔く反映されている。

実際、最近のアメリカ映画は、どれもこれもが長すぎる。それは、監督たちの多くが、覚悟だの、野心だの、批評意識だの、心意気だのといったものにエネルギーの大半を使いはたしてしまうからだ。古典的なハリウッド映画が消滅して以後に撮り始めたカウフマンやテレンス・マリックはいうにおよばず、コッポラ、スピルバーグ、ルーカス、スコッセッシ、チミノといった監督が作家として大成しえずにいるのは、「個性」的たろうとする意志がその精神と肉体とをこわばらせてしまうからだ。彼らの作品は、作家意識の過剰においてヨーロッパ映画の変種でしかなく、物語と俳優さえそろえば映画が撮れるというアメリカ映画の原則を大きく逸脱している。無意識のうちにそう主張するレス・メイフィールドは、まるで「ネオコン」一派のように歴史や原理にはかたく目を閉ざし、ありえないはずのハリウッドの伝統に堂々と回帰してみせる。事実、「左翼」ニコラス・レイの『無法の王者ジェシー・ジェイムス』など間違っても参照したりはせず、第二次世界大戦の英雄オーディ・マーフィがジェシー・ジェイムスを演じたレイ・エンライト監督の『命知らずの男』(50)にかぎりなく似てしまうところなど、『アメリカン・マインドの終焉』(みすず書房、88)のアラン・ブルームさえ勇気づけそうな、筋金入り「ネオコン」の仕業だといえなくもない。

誤解を避けるためにいいそえておくが、この文章は『アメリカン・アウトロー』を貶める意図などまったく含んではいない。映画史的に見るべきところなど一つとしてないにもかかわらず、この野心を欠いた西部劇は、20世紀の最後の30年におけるアメリカ映画の混迷ぶりを何の衒いもなしに指摘しているからだ。実際、ゴダールやトリュフォーを意識することで陥りがちな批評意識の空転を自粛し、物語とそれにふさわしい俳優だけに神経を集中していたなら、スピルバーグやスコセッシは、もっともっと面白い作品を撮れたはずなのだ。誰かがいわねばならなかったこの真実をふと口にさせてしまうころに、『アメリカン・アウトロー』のあくまで無邪気な存在意義が認められる。

大砲からガットリング・ガンまで装備した北軍部隊を寄せ集めの南軍ゲリラが壊滅させてしまう導入部は、決して悪くない。派手な戦闘場面を通して、ジェシー・ジェイムス(コリン・ファレル)とコール・ヤンガー(スコット・カーン)のキャラクターが徐々にきわだつ演出も、それなりのものである。鉄道会社に雇われた策士ピンカートンをティモシー・ダルトンに演じさせるという発想も、なるほどと思わせる。ジェイムス兄弟の母親役をあのキャシー・ベイツに託すにしてはいかにも見せ場に乏しいが、たんなる彩りと思われたアリ・ラーターが最後に機関車に向けて大砲をぶっ放してジェシーを救うという展開は、大いに笑える。ゆめゆめこの「ネオコン」派西部劇を侮ってはならない。

 

初出:『Invitation』2003年7月号(5号)

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