ジャ・ジャンクー『青の稲妻』
――「表情の零度」または ポストモダン中国のハードボイルド

蓮實重彦

ジャ・ジャンクーの『青の稲妻』(2002)とともに、「傑作」の一語が不意に映画史の死語であることをやめる。これが傑作だからではない。傑作の範疇にはおさまりがつかぬ誇らしげな孤立ぶりによって、傑作の名にふさわしい作品がかつて存在したことを想起させずにはおかぬからだ。例えば、ルノワールの『ゲームの規則』(1939)を傑作として正典化したのは、ゴダールの傍若無人な『勝手にしやがれ』(1959)にほかならない。ところが、ジャ・ジャンクーの新作には、『勝手にしやがれ』はいうにおよばず、みずからの前作『プラットホーム』(2000)までをも傑作として正典化しかねない何かがまがまがしくみなぎっている。そのまがまがしい孤立への嫉妬を介して、人はかろうじて映画の「現在」と触れあう。

『青の稲妻』の誇らしげな優位は、しかし、後に生まれた者の特権からきているのではない。この映画が「現在」ととりかわす何ともあやうげな関係によって、それは決定されている。あやうげなというのは、文化革命時代の青春群像を描いてみせた『プラットホーム』と異なり、ここには現代中国の若者たちの風俗が生々しく息づいており、なるほど彼らはこんな風に生きているのかと誰もが思わず納得しかねないからである。だが、そんな納得が「現在」と触れあうはずもないと確信するかのように、ジャ・ジャンクーは若い男女の行き違った振る舞いに過酷な視線を向けつづける。そこに描きだされる光景は、ときに滑稽であり、甘美であり、痛ましい。彼らの無方向な存在の震えがふとしたきっかけで活気づける画面の豊かさに、見るものはただ息をのむしかない。

舞台は山西省の大同と呼ばれる都市に設定され、その繁華街の雑踏や、裏通りの泥道や、郊外の殺風景な空き地を、失職したばかりの19歳の青年が、親しい仲間とともにあてもなく彷徨う。処女作『一瞬の夢』いらい描きつづけた故郷の汾陽(フェンヤン)の町を離れたジャ・ジャンクーは、いきなり一まわりも二まわりも大きくなったかのようだ。洗いさらしの白いシャツをまとい、昼下がりの大通りをバイクで疾走するピンピンは、何かを思いつめているようにも見え、思考から見捨てられているようにも見える。暇を持てあましているようでもあれば、緊急の呼び出しにかけつけようとしているかにも見える。「表情の零度」ともいうべきこのひたむきな疾走ぶりを正面から捉えつづける導入部のキャメラが、文句なしに素晴らしい。青年の無表情をあたりの騒音から孤立させるこの長い移動撮影が、ハードボイルド的というほかはない緊迫感をフィルムの全域に波及させているからだ。

謎の事件もなければ、私立探偵も姿を見せぬポストモダン中国のハードボイルド。1ドルにどれほどの価値があるかも知らぬまま皺になった紙幣を仲間に見せびらかし、北京のオリンピック開催決定のニュースに無表情で立ち会い、中国のWTO加盟にわけもなく興奮し、海南島での米軍機事故を伝えるテレビ報道を茶の間で聞き流し、多くの負傷者をだしたらしい不穏な爆発音にも、彼らはことのほか驚いたりはしない。若さは、そこで謳歌されてもいなければ、詠嘆されてもおらず、もっぱら刹那を生きながら、そのことにさえ無自覚な青年たちを生み落とした社会が、真正面から批判されているのでもない。

ピンピンは、調子外れに『ラ・トラヴィアータ』を高唱する奇人(ジャ・ジャンクー自身が演じている)のわきをすりぬけ仲間と合流し、煙草をくゆらせながらむなしく時間をやりすごす。法輪講に凝っている母親とはいさかいが絶えず、北京行きを夢見る受験前の女子高生と不器用に恋を語りあい、兵役検査にもあっさり落ちる。ヘアースタイルに精一杯気をつかう仲間のシャオジーも、ときに迷彩服めいた衣装で粋がったりしながら、ピンピンの「表情の零度」を共有している。見る者は、豊かな表情を秘めながらそれを素描しえずにいる若者たちの無表情を介して、『青の稲妻』のはらむ「現在」に触れておののく。

シャオジーは、蒙古特産のアルコールで一儲けをたくらむやくざめいた男の情婦のチャオチャオにぶっきらぼうに近づき、とりまきの男たちと暴力沙汰を起こす。いかがわしいやりかたで金を稼いでもいるらしい「モンゴル王酒」のキャンペーン・ガール(資本主義!)の彼女は、蝶のブローチで胸を飾り、つめかけた男たちの前で媚びも見せず、人形じみたウィッグを振り乱して踊る。その曲が、作品の原題となった『任逍遙』である。題名からして『任逍遊』とも無縁ではないことは察しがつくが、シャオジーは、荘子はいうまでもなく、「胡蝶の夢」のことさえ聞いたこともないという。素肌の蝶の入れ墨を見とがめられて言葉少なに故事を説明するチャオチャオの深い諦念を、その手にかき抱かれた無表情な青年ははたして共有しえたのだろうか。

台湾よりも中国でヒットしたリッチー・レンの『任逍遙』は、その後、肝心なところで二度歌われる。まず、受験で忙しくなるからデートに誘わないでと恋人から告げられたピンピンが、薄汚いビデオールームでクリップにあわせて彼女の手を握り、二人して伏し目がちに歌う。また、警察に捕まり手錠をかけられたピンピンが、警官に促され、直立不動のまま真正面を向いて歌う。そのつど「表情の零度」がきわだち、目には見えない「現在」に彼らがからめとられてゆくさまが痛ましく画面を震わせる。

ピンピンがなぜ逮捕されたかについては、触れずにおく。『青の稲妻』がどんな終わり方をしているのかも、いまは書くまい。ただ、「傑作」を遥かに超えたこのフィルムに不意打ちされ、見終わってからしばし息もつけなかったことだけは記しておく。

 

初出:『Invitation』2003年3月号(創刊号)

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