魔術師の手招きーーアッバス・キアロスタミ『10話』

蓮實重彦

アッバス・キアロスタミが希代の魔術師であることぐらい、誰もが常識として心得ている。実際、『友だちのうちはどこ』(87)いらい、なだらかな丘陵地帯にのびているジグザグの道を目にしただけで、人びとは、催眠術にでもかかったかのように思考を奪われてしまったものだ。ところが、最近作『10話』(02)のキアロスタミは、そんな常識さえあざ笑うかのように、いまや神業の域に達した(としか思えぬ)魔術のかぎりをつくして、見る者から言葉を奪う。いったいどんな修練をつめばこんな映画が撮れるのか最後まで分からずじまいだというのに、誰もが陶然として騙される権利を行使するしかないからである。しかも、スクリーンに推移する画面は、一瞬ごとの覚醒へとあらゆる視線を誘っている。

催眠的ではなく、ひらすら覚醒的な手招き。それは、これまで見たキアロスタミの身振りとは明らかに異なるものだ。ここで披露されているトリックも、かつて見たこともないほど単純きわまりない。それに必要とされるのは、自動車のフロントにすえられたちっぽけなDVキャメラだけだからである。事実、『10話』をかたちづくる十の挿話のほとんどの画面は、運転席と助手席に向けられたたった二つのアングルで撮られている。にもかかわらず、そこには驚きにみちた時間が形成され、その持続を断片として生きる人物たちのせっぱつまった言動が画面を鈍く震わせる。しかも、監督は撮影の現場に不在だったというのだから、どうしてこれほど緊迫した映画が撮れるのかとつぶやかずにはいられない。

『マトリックス・リローデッド』(03)のウォシャウスキー兄弟が、たった一人のネオのまわりにエージェント・スミスのシミュラークルを雲霞のごとく乱舞させても、どうすればこんな映画が撮れるのかと怪訝に思う者など一人としていまい。先端的なCGテクノロジーを駆使し、格闘技の振り付けをユアン・ウービンに依頼すれば、こうした画面などいくらでも撮れるはずだというさしたる根拠もない確信が、画面から驚きを一掃してしまうからだ。ところが、いきなり助手席にころがりこんでくる少年がかたわらの女性と口論めいたやりとりを始める『10話』の最初の挿話を目にした瞬間、どうすればこんな画面が撮れるのかと誰もが途方に暮れるしかない。

また自動車と少年の話かなどと高を括ってはならない。『10話』は、『そして人生はつづく』(92)の父親と息子という構図からは思い切り遠い、キアロスタミにとっては初めてといってよかろう女性の映画だからである。ハンドルを握る女性にキャメラを向けることで、彼は、いくぶんか催眠的に機能していた外部の光景を小気味よく遮断し、滑走する密室に舞台を限定する。これまで人物や風景に向けられていたのとは明らかに異なる距離感が、不可視であるがゆえに維持されていた作家的な残酷さ――『ホームワーク』(89)を想起せよ――を視界から遠ざけ、被写体の無媒介的な肯定へと見る者を誘っている。

車を運転しているのは、写真家として忙しく立ちまわっているうちに夫との仲をこじらせ、いまでは別の男と生活をともにしている女性である。「赤の他人」と暮らすのを好まない一人息子は父親に引き取られているらしい。冒頭の挿話では、父親の車から母親の車へと乗り移った少年が、キスしてという母親の言葉を無視してあれこれその行動をなじり、離婚をめぐるいつもの自己弁明にうんざりしたり、愛情を求めてすねてみせたりするさまが、15分もの固定ショットでとらえられている。母親の姿は一貫して画面から排され、対等な口調で自説を述べ立てる幼い表情の推移ばかりが、息詰まるようにスクリーンをみたしている。いさかいの末に少年が車を降りると、キャメラは初めて母親を視界におさめる。その横顔の思いもよらぬ冷ややかな美貌ぶりに、人は見てはならぬ何かを目にしてしまったかのようにうろたえる。チャルドこそかぶってはいても、サングラスをかけ、濃い口紅は塗っているし、指には宝石さえ輝かせている魅力的な女性だからである。

誘う仕草が拒む仕草にも通じかねないこの美貌の女性は、息子のほか、姉や、信心深い未知の老婆や、モスクで知り合ったばかりの友人や、男と間違えて乗り込んできた娼婦などを相手に、いつ崩れても不思議でないあやうい均衡をかかえたまま、駐車もままならぬ表通りを日夜走行する。ほんの些細な台詞から、現代テヘランに生きる女性の隠された意識の襞が不意に顔をのぞかせ、思わずはっとさせられる。愛すること、子供を持つこと、職業につくこと、老いること、信仰を持つことなどが、誰にも共有しうる「問題」としてではなく、もっぱら個の生存にかかわる必死の冒険として露わにされてゆくからだ。

だが、それにもまして、人は、映画が映画としてその素肌を露呈していることのあられもなさに言葉を失う。『10話』は、まさしく映画そのものの「あられもなさ」を主題としているからだ。実際、滑走する密室としての車の中には、隠されるべきものは何もない。冷ややかな美貌とは異なる美しい瞳の女性がそこに乗り込み、チャルドから長い髪をのぞかせながら愛する男のことを静かに語り始めるとき、見る者は、何かが起こりそうな予感に胸をしめつけられる。事実、二度目に助手席に姿を見せるとき、彼女の美しい容貌は見る影もなく一変している。その変化がどんなものであるかは、ここでは語らずにおく。その「あられもなさ」は、みだりに瞳でまさぐったり、言葉にしたりすべきものではないからである。にもかかわらず、その光景をくまなく視線におさめ、目をそらすことさえしなかったのは、それをキャメラにおさめるキアロスタミが希代の魔術師だからだろうか。それとも、その魔術の変貌ぶりを何とか見とどけたかったからだろうか。

 
 
初出:『Invitation』2003年8月号 (6号)
 
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