21世紀のグルジア的な「貴種流離譚」
――オタール・イオセリアーニ『月曜日に乾杯!』

蓮實重彦

戯画におさまるほどの類型的な奇形化をこうむっているわけではないが、さりとて写実的というにはほど遠いあやうげな風景の中を、一人の労働者が、フランスののどかな農村から煙突の立ち並ぶ工場地帯へ、パリとは名指されていない夜の大都会から白昼のヴェネチアの運河沿いへと、ちょっと散歩にでるといった屈託のなさで移行してまわる。いっときも煙草を手放さない男が乗り込む列車やバスはニコチン切れの喫煙者であふれかえり、下車と同時に誰もがもどかしげにライターを点す。何かが均衡を欠き、ひたすら誇張へと向かいながら、それでいて見慣れた光景があらゆる人物を矛盾なく受け入れてしまうといういつものイオセリアーニ的な構図が、見る者を冒頭から武装解除する。何を生産しているのか見当もつかない工場で溶接工として働いている男は、年老いた母親と妻、それに二人の子供までかかえた中年男なのだが、ある朝、工場の入り口で構内禁煙のサインを見たところでふと立ち止まり、都会で一人暮らしをしている病床の父親を見舞うことにする。

危篤だという老齢の父が住んでいるのは、労働者のみすぼらしい身なりからは想像しがたい豪華なアパルトマンで、壁を埋めつくした由緒ありげな額縁や調度品から、かなりの暮らしぶりをしていたことがうかがえる。サロンには、遺産を当てにしてのことだろうか、父親の妹や親類縁者の女がつめかけ、じっと臨終の瞬間を待っている。ところが、昏睡状態に陥っていた父親は、息子の声を聞くなり嘘のように元気を回復し、あたりを闊歩して女どもを鄭重に追っ払うかと思うと、うまそうに煙草をくゆらせながら、ウォッカに違いない強い酒を息子と二人であおり始める。アクロバットのようなピストル射撃術まで披露して、どうも最近は腕が鈍ったと嘆いてみせる伊達男の父親は、金庫からとりだした分厚い札束をどさりと息子の前に置き、これを持って世界を見てこいと命令する。

オタール・イオセリアーニの『月曜日に乾杯!』をここまで見た者は、このグルジア出身の映画作家のフランスでの新作が、労働者の素朴な生活を謳歌しているかにみえながら、一種の貴種流離譚として撮られていることをうすうすとながら理解し始める。農村地帯に親子三代で暮らすこのさえない日曜画家にとって、溶接工は世をしのぶ仮の姿にすぎず、本来なら退役高級将校の跡取り息子として、画筆一本で悠々自適の生活ができたのかもしれないからだ。そのとき、見る者は、朝食を運んできた孫に毎朝窓のカーテンまで開けさせる年老いた祖母が、やおら身支度を整え、くわえ煙草でスポーツカーのハンドルを握り、村中を颯爽と走行したりする姿の意味を漠然とながら理解する。夫の女癖の悪さから離婚したのだろうこの老婦人は、息子の通勤用の冴えない大衆車とは比較にならぬ瀟洒な無蓋車を前夫から奪いとったに違いなく、パリでの社交生活を知っているだけに、身なりも髪型もかまわなくなってしまった労働者の疲れた肥満型の女房に較べて、まだまだ女性としてのコケットリーを失わずにいる。

ここでの貴種流離譚は、われわれの目には二重のものと映る。溶接工の父親であるお洒落な退役将校は、どうやら亡命ロシア人らしいからだ。彼は、壁の古い写真を指さし、若き日の彼自身のかたわらに立っている旧友をヴェネチアで訪ねてみろというのだが、派手に戦場をかけめぐったという二人の将校姿が、旧ソ連軍のものというより、帝政ロシア時代の雰囲気をたたえているところが場違いな微笑を誘う。その後、コサックの猛者たちが痛飲しているバーに気軽に立ち寄るところなど見ると、フランスの農村地帯に住むこの溶接工が、帝政ロシアの貴族につらなる御曹司である可能性も否定しがたい。ロシア革命など起こらなかったとでもいいたげなこのあたりの展開は、「歴史の終焉」論者のヘーゲル主義などとは異質の自由闊達なノンコンフォルミズムに彩られ、ルサンチマンの影さえとどめていない。それが、ヨーロッパの伝統の力というものなのだろうか。

1966年に『落葉』で国際的に注目された元ソ連映画の俊英もいまや70歳に近く、最近ではフランス資本で撮った作品でもっぱら国際映画祭の寵児としてもてはやされているが、冴えない溶接工の貴種流離譚にイオセリアーニ自身の長い亡命の歴史をかさねあわせてみたりするのは、この傍若無人なグルジア人に対しては、いかにも浅はかな姿勢にほかなるまい。彼は、自分自身のどこかしら地方貴族めいた孤高の人影を笑うべき存在に見立てることすら辞さぬからである。実際、ヴェネチアの豪邸に労働者を大袈裟に迎え入れる父の旧友マルチーノ侯爵を演じているのはイオセリアーニ自身なのだが、前作『素敵な歌と船はゆく』ではむしろもうけ役を引き受けていた彼が、ここでは見るからにいかがわしい老貴族を、爵位の正統性さえ疑わせかねぬほどの虚飾のかぎりをつくしていとも楽しげに演じており、監督が率先して楽しむのは映画的な「遊戯の規則」に反しているとは思いつつ、やはり笑わされてしまう。

変人奇人のたぐいがこれといった波乱も起こさず市民生活に闖入するときの呼吸など、ジャン・ヴィゴやルネ・クレールなどフランス派の「詩的レアリズム」をふと思わせぬでもないが、監督自身は、『ミラノの奇蹟』のデ・シーカや、ソ連喜劇の天才ボリス・バルネットに深い敬愛の念を憶えているのだという。台詞よりは音響と行き違った身振りで笑いをとるところなど、ジャック・タチ――彼もロシア系だった――を想起させる瞬間もないではないが、『月曜日に乾杯!』はやはりイオセリアーニにしか撮れない彼ならではの映画である。貴族的な無政府主義ともいうべきその「個性」が映画史を心底から揺るがせるかといえばいささかの疑問は残るが、こうした人を喰った映画の存在を容認することには、戦争までが退屈さに支配されがちな21世紀の初頭に、かなりの意味があるはずだと力説したい。爆笑、苦笑、微笑、含み笑い、等々、ここではすべての笑いが許されている。

 

初出:『Invitation』2003年9月号(7号)

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