『監督 小津安二郎』〈増補決定版〉はどのようにして書かれたか

蓮實重彦

ジョン・フォードが他界して今年で30年になります。8月31日は彼の命日でしたが、そのことにはたしてどれだけの人が意識的だったでしょうか。さいわい、それをしっかり記憶している若い映画関係者が、韓国にはまぎれもなく存在していました。8月末の光州国際映画祭がフォードにオマージュを捧げ、16本の作品を上映し、国際シンポジウムまで開催してくれたのです。そのスピーカーの一人として来ないかという突然の誘いには深く心を動かされました。二つ返事で全羅南道の道都たる光州にかけつけたのはいうまでもありません。

シンポジウムでは「フォードは、ルノワールや小津のように、あまりにも知られすぎ、あまりにも知られていない映画作家である」という言葉でスピーチを始めました。ルノワールといえばフランス的、小津といえば日本的としばしばいわれるように、フォードにもまたアメリカ的というラベルがはられがちですが、そうしたラベルをはがすことから映画を見ることが始まるという立場を強調したかったからです。そこには、没後30年だからという理由で人びとが饒舌にフォードを語ることをいましめる意味もこめられていました。実際、フォードの作品は、「男たちの乱闘」だの、「荒野の騎馬行」だの、「コーラスとダンスとマーチ」だのにはとうてい還元されがたい豊かさにあふれており、その豊かさは、ときに混濁した外見にさえおさまります。例えば、フォードでは、男も女も手あたり次第にものを投げまくるのですが、晴れがましくもまた陰鬱なその振る舞いを、どれほどの人が「見て」いるのでしょうか。

映画について書いたり語ったりすることには、饒舌を排するためにあえて言葉をつらねるといういかんともしがたい矛盾をかかえこんでいます。その矛盾に無自覚な映画的な言説は、存在してもよいけれど、存在しなくてもかまわないものばかりです。ところが、アメリカで刊行されるフォード研究のほとんどが存在しても……存在しなくてもかまわない書物であることに苛立ちをおぼえていたわたくしは、外国語によるフォード論の執筆準備を始めていました。そこに、願ってもない機会が韓国からもたらされたのですから、興奮せずにはいられません。没後30年にあたって高まるだろうフォードをめぐっての饒舌に和するのではなく、ひたすらフォードの画面へと人びとの瞳を誘うため、口にされる瞬間に言葉が消滅するようなスピーチに徹すること。

小津生誕百年にあたる2003年にあえて『監督 小津安二郎』の〈増補決定版〉(筑摩書房)の執筆を思いたったのも、それと同じ理由によるものです。こうした機会に、人びとが小津安二郎をめぐっていつになく饒舌になるのはまあ避けられないことでしょう。記念事業にはそれなりの形式もあることだし、あえて止めようとは思いませんし、諸外国との関係でやるべきことはやらねばならない。事実、12月11日と12日には、吉田喜重、山根貞夫両氏、そして内外の多くのゲストと語らう、小津をめぐる充実した国際シンポジウムを計画しています。だが、ときならぬ饒舌が、あまりにも知られすぎた映画作家として小津を視線から遠ざける身振りとなることだけは排さねばならないというのがわたくしの立場です。フォードがそうであるように、小津の作品もまた、生誕百年などとは無縁に、たえず見られていなければならないものだからです。こうした記念行事に何らかの意味があるとするなら、小津があまりにも知られていない作家だと人びとが意識することをおいてはないはずです。間違っても懐かしの名画を撮った過去の名匠などではなく、小津安二郎はわたくしたちにとって、あくまで来るべき作家にほかなりません。

20年前に『監督 小津安二郎』を書いたとき、あまりにも知られすぎた小津を小津的なものと呼び、それが小津の「作品」とどれほど異なるものであるかを具体的に明らかにしようとしました。さいわい、この書物はフランス語や韓国語に翻訳され、その一部は英語の小津論集にも入っていますが、そのフランス語版の序文を、「日本的であることからはもっとも遠い映画作家である小津安二郎は……」という一行で始めることで、海外にもはびこっているあまりにも知られすぎた小津像への挑戦も試みました。その冒頭の一行はいささかも奇を衒ったものではなく、あまりにも知られていない映画作家としての小津の画面へと人びとの視線を誘うために必須の言葉でした。それが功を奏したとまではいいませんが、「日本的な作家」小津というイメージは海外でもようやく薄れ始めています。

このたび刊行された『監督 小津安二郎』の〈増補決定版〉には、新たな三章が130枚ほど書き加えられています。「憤ること」「笑うこと」「驚くこと」と題されている増補部分は、いずれも、過去20年間に小津を何度も見なおし、そのつどあまりにも知られていない映画作家だと改めて実感させてくれたいくつもの細部に触発された言葉からなっており、文体にしかるべき変化が生じてはいるものの、同じ視点を踏襲しています。『監督 小津安二郎』の〈増補決定版〉は、『監督 小津安二郎』と同じ書物であり、同時にまったく異なる書物でもあるのです。

例えば、『監督 小津安二郎』の刊行直後から、『秋刀魚の味』(1962)でアイロンをあてる岩下志麻の首筋にかけられていたストライプのタオルのことが気になってならず、それにはしばしば言及してもきましたが、その意味がなかなか理解できませんでした。しばらくして――十年ほどたってからだったでしょうか――彼女がそれを勢いよく振り払う仕草が、『東京暮色』(1957)の有馬稲子がマフラーを振りほどく仕草に通じていることに気づいたとき、「憤ること」の章の構想がほぼ固まりました。問題は、タオルでもマフラーでもなく、若い娘が何かの布きれを首筋からさっと振り払うことにあり、その一瞬の身振りに、小津は「憤ること」の視覚化を託していたのです。既婚者である『早春』(1956)の淡島千景も、夫の池部良が岸恵子とあやまちをおかして自宅に戻った瞬間、襟元からタオルを振り払う。その演出の一貫性には驚かずにはいられません。

「笑うこと」の章の構想が固まるには、もっと多くの時間がかかりました。小津が声をあげて笑っている人物を正面から捉えることを避けているのは前からわかっていましたが、それが無人の廊下に響く笑い声との関係で意味を持つことに気づいたのは、最近のことにすぎません。「驚くこと」の章の構想は、いきなりパリで生まれました。『監督 小津安二郎』のフランス語版の発売を記念してシネマテーク・フランセーズが『東京の宿』(1935)を上映してくれたのですが、これまで何度もヴィデオで見ていながら気づかなかった細部が、大きなスクリーンを通して久しぶりに見ているときに、いきなり意義深い配置におさまってくれたのです。坂本武と岡田嘉子とが無言で視線を交わしあう瞬間の驚きの不在、そこから新たな一章が導きだされたのです。

その間、わたくしはたえず『監督 小津安二郎』とともに生きてきました。それを〈増補決定版〉としてまとめるにあたり、井上和男編の『小津安二郎全集』(新書館)におさめられた脚本に目を通してみると、タオルやマフラーへの言及はいうまでもなく、無人の廊下に響く笑い声などそこにはまったく書かれていません。映画が、脚本からどれほど遠いものであるか、改めて思い知らされました。それが小津安二郎の演出にほかならず、脚本を読んでいるかぎりは「憤ること」のない若い女性たちが、小津の画面では鮮やかに「憤り」の身振りを演じているのです。その一瞬を、どうか大きなスクリーンで「見て」いただきたいというのが、『監督 小津安二郎』〈増補決定版〉にこめられたメッセージにほかなりません。

本稿は、『監督 小津安二郎』〈増補決定版〉(筑摩書房)の刊行を契機に書かれたものである。

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