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ゴダールにこれほどたくさんの観客が集まってくださいまして、ゴダール本人でもない私が、深く感動しております。ゴダールは、「時間通りには絶対来ない人」ということになっておりますが、私は気が小さいので律儀に時間通りにまいりまして、皆様方が客席に詰めかける姿をじっと観察させて頂きました。極端に年齢の若い層の方の姿もちらほら混じっており、そのこともなぜか、私をうろたえさせているわけでございます。ゴダールの映画にこれほど幼い年齢の男女がかけつけてくださっていいものだろうかと、思わず息を殺してみまもっておりました。
昨年のことですが、ちょうど9月にパリに行っておりまして、サンジェルマンの小さなホテルで、建築家の安藤忠雄さんにばったりお目にかかりました。早朝7時くらいだったでしたでしょうか、朝食のときにお会いしましたところ、安藤さんが、「実はフランスから変な企画を持ち込まれた。あるうら寂れた工場みたいなものを潰して、そこに美術館をつくるという奇特な人がいて、その美術館のコンペに、どうやら僕が通ってしまったらしい」といわれる。で、「どうもセーヌ川の下流のほうの変な島だ」とおっしゃるので、私は「それはよかった」と喜びました。その奇特な人は、大金持ちのピノという人なんですが、「その人に今日最終プランを提示しに行くんだ」という話をうかがい、ああ、また安藤さんの建築がひとつパリにできると思って大いに喜びました。そして、その日の午後一番、ジャン=リュック・ゴダール監督の『愛の世紀』を見に行きました。そうしますと、朝問題になったばかりの、ルノー工場の存在するセーヌ下流の、大きく迂回しているところにあるその島が、そのまま出てくるわけですね。「えっ、安藤さんが言っていた、あの工場をゴダールも撮っている」ということで、私は奇妙な符合に驚いたわけです。
これからご覧になる方々にあらかじめ申し上げてしまうのも気が引けますが、この映画の中に、大きな工場が出てきます。それは、長らくルノーの工場として使われていた建物であり、いまは廃屋になっているわけですけれども、安藤さんのお話にもあったように、そこにさる大金持ちが私財をなげうって個人的な大きな美術館を建てる。それを、ゴダールがそれよりも数年前に撮っていたわけです。この映画の中に、セーヌ川に沿って軍艦のような奇妙な建物が出てきたら、それだと思って頂くといいわけです。これを今晩しっかりご覧頂いておいて、数年後にパリに行かれましたら、日本の建築家の安藤さんが、これを換骨奪胎して奇妙な間(ま)の空間に変容させてしまっているありさまをご覧頂けると思います。今夜の体験は、したがって、歴史的な体験ともなりうるものなのです。多分このままの形では残りませんので、いまある姿をよく見とどけて頂きたいと思います。
ルノー工場というのは第二次世界大戦後そこでさまざまなことが起こり、いくつかの労働運動等もあったところなんですけれども、ちょうどパリの西の果てといいましょうか、そんなところに建っているもので、周りにセーヌが流れていて、非常に奇麗な、しかし歴史的には、さまざまな抑圧、階級闘争等々があった、そのような空間であるわけです。
ゴダールはこの『愛の世紀』という映画によって――「世紀」という単語は別の何かを想像させ、口にするのが若干気になるところもあるわけですけれども――、実は彼らしからぬことですが、「愛」を描こうとしたわけです。あの年齢のあの顔で「愛」か、という感じがないわけでもありませんが、しかし、彼はかなり真面目に「愛」を撮ろうとしている。では、それ以前のゴダールは何を撮っていたかというと、すべて「愛」の敗北であるわけです。いたるところで、個人的な軋轢であったり、「嫉妬」や「軽蔑」であったり、さまざまな形で「愛」は成立しないという話を撮っていた人なんですが、1930年生まれですから今年71歳になるゴダールは、なんと、この年齢で「愛」に目覚め、そして、「愛」を賛えようとする――原題は『愛を賛えて』ということなんですけれども、「愛を賛える」のです。その歳で、そんなことをしていいのかと思わずつぶやきたくもなってしまいますが、彼は非常に真面目であるわけです。どうしてゴダールは、この歳にもなって「愛」を賛えるなどという、神をも恐れぬ振る舞いをし始めたのか。私の解釈は、ゴダールが、その前に数年をかけて、『映画史』という――これもまた無謀な試みですけれども――孤独な映画を撮ってしまったからだというのが私の解釈です。
『映画史』をご覧になった方がこの中にいらっしゃるかどうか分かりませんが、これは、「愛」とは無縁の、自らの過去を清算する物語(=歴史)であるわけです。自分自身をどのように清算するか。そして、自分を支えてくれた映画をどのように清算するか、できれば、それを清算する試みを自分ひとりの責任でやっていきたいという、孤独な、つまり、第三者の介入を排した、「愛」というものの登場する余地のない、映画に対する愛さえ漂ってはいない非常に冷ややかな、また冷ややかさに徹しているがゆえに私たちをどぎまぎさせるようなフィルムであったわけです。
この『愛の世紀』の直前、近く日本でも封切られます『フォーエヴァー・モーツアルト』という作品がございます。このあたりからゴダールが妙に「心」にこだわり始めるわけです。もちろん、誰でも心は持っていますし、ゴダールだって人の心を描かないわけではないのですが、物語の文脈の中で、ある心理的な統一感が自分で分かってしまう、見ている人にも分かってしまうというような画面の連鎖をゴダールは排してきたわけです。こういう流れだからこの人はこう考えており、であるがゆえにこのような対応をする、ということは、ゴダールの映画からはなかなか感じ取れなかったわけですね。いったいこの映画作家は何を考え、何をしようとしているのか、この画面の意味は何か、と考えると、おそらくひと晩寝られなくなるような、そんな文脈におさまりきらぬ画面がしばしば導入されていたわけです。ところが、この『フォーエヴァー・モーツアルト』からは、「なぜモーツアルトか」という点だけは分からないわけですけれども、あとは、「この人物がいまなぜ悩んでいるのか」、という脈絡が全部分かってしまう、あるいは分かるきっかけを観る者に与えてくれる映画になっているわけです。
この中に、ゴダールとはまったく似ても似つかぬ、ひとりの老齢の映画監督が出てきます。ヴィッキーという名前で、フランスの、すでに亡くなった哲学者のジル・ドゥルーズになんとなく似ている人なんですけれども、それを演じたヴィッキー・メシカという俳優もすでに亡くなっております。その彼が、サラエヴォに演劇を上演しに行きたいという自分の娘と甥、それからまた自分のメイドに誘われていったんは出発するわけですが、途中でその三人からふいに逃れてパリに帰ってきてしまう。何億円でしょうかね、とにかく巨額の演出料がもらえる作品のためにいわば身を売って、三人の若者を見捨ててパリに戻ってしまう。パリに帰ると、彼がひとりでパリのカフェに入り、じーっと考え込むようにビールを飲む場面があります。普通、ビールを飲もうと何をしようと、ゴダールの映画では画面のつながりがとんとんはねていきますから、そんなことはどうでもいいんですが、ここでその映画監督は「ものを考えているように」見えるわけです。人物はものなど考えていそうにない、仮に考えていたにしてもそんなことを観客に納得させるような演出はしないというのがゴダールの映画なのですが、ここで、「ああ、どうして自分は若者と一緒にサラエヴォに行かなかったのだろうか、自分はどうして身を売ってまでこんな映画を撮ろうとしているんだろうか、サラエヴォを目指している自分の娘は、いまごろどんな苦難を耐えているんだろうか、彼女は無事なんだろうか……」というふうに思っているような画面が挿入されるわけです。つまり、心理的な文脈をゴダールは作ってしまっているわけですね。そして実際にその周辺にある画面では、娘がパルチザンに犯され、砲弾を浴びて死んでしまうということが示され、最後にこの映画監督がまたひとりでパリのカフェでビールを飲んでいる場面が出てくる。そうするとこれは、「ああ、自分は何と無残な男であろうか、家族を捨て、サラエヴォに行くという人類的な使命をも果たさずにパリに戻ってきて、どうして、こんな映画など撮ることになったのだろうか」という、自責の念のようなものが画面から伝わってくる。こんな心理的な文脈はゴダールは作らなかった。ところが最近のゴダールは、そんな文脈を作り始めているわけです。
今日これからご覧になる『愛の世紀』にしても、「この人は、誰かを愛しており、あるいは何かをしようとしている」ことが分かってしまうシーンがたくさんあります。つまり、ゴダールは、いささか雑駁な言葉で言ってしまうと、正当に物語を語ろうとしているわけです。ところが、それがゴダールですからそうは問屋がおろさない。簡単には分からないんだけれど、しかし論理的な文脈をたどると分かる、という高級な技術を使っているわけです。簡単には分からないというのは、ここに「愛」の対象になる女性が出てまいりますが、その人の正面からの顔がほとんど撮られていないので、それがいかなる人物であるかをゴダールは視覚的に教えてはくれません。しかし、ご覧になっていると、「顔などどうでもいい」ということが分かってくるわけです。これがゴダールの「愛」であります。顔ではない。その人の存在の「気配」である、と。それをキャメラがどう捉えるかということが問題なのです。これまでゴダールの映画を見てこられればお分かりだと思いますが、ゴダールは、画面そのものが、大きな文脈をつくることなく四方八方に拡散して散っていくような、そういう画面を作っているわけです……。
残念ながらそろそろ時間がまいりましたので、ひとつの画面だけしっかり見て頂きたいと思います。さきほど申し上げた、スガン島というセーヌ川沿いの工場が出てまいりまして、それを背景として、男と女がじっと動かずに語っている姿を背後から捉えるという、黒白の素晴らしい場面があります。ゴダールは、人が何かに耐える姿、時間に耐えたり、あるいは苦しみに耐えている姿を、じーっと動かないキャメラに収めるということをあまりしたことがないんですが、ここで初めて、ある女性に向かって近づきたいと思っているひとりの男と、そこから逃れようとする女性とを、黒白の端正な画面の中にじっと捉えています。ゴダールはかつてそんなことをしたことがない。そこから、「愛」が始まる。ゴダールの映画としての「愛」が始まる。その瞬間をぜひ、ご覧頂きたいと思います。スガン島、そしてその前の、ほとんど正面に顔を見せない女性と主人公の男。そこにゴダールが、いかにじっとキャメラを据えているか。その据え方が、ゴダールが発見したところの「愛」なのです。
映画後半の画面がカラーになってからの、フランスの戦時中の歴史への言及については、もはやそれに触れている時間がありません。とりあえずは、モノクロームの「愛」の画面の不気味な美しさのみ指摘して、皆様方によいスクリーニングをお祈り申し上げます。どうもありがとうございました。
初出:プレノン・アッシュ website
本稿の再録にあたりプレノン・アッシュにご協力をいただきました。
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