シャンタル・アッケルマンを見ながら、ペドロ・コスタに思いをはせる

蓮實重彦

『東から』(93)に始まる国境三部作ともいうべきものをしめくくる『向こう側から』(「カイエ・デュ・シネマ」週間で上映、03)の冒頭で、シャンタル・アッケルマンは、アメリカ国境を越えようとして命を落とした息子と孫息子の思い出を語るメキシコの老婆にキャメラを向けています。祖父母のいずれもがスペイン系だったと誇らしげに口にする老婆は、息子たちが残していったものだろう小さなテレビの受像機とCDプレイヤーなどを背にして、ときおり涙をぬぐいながら悲しみを語るのです。彼女を見据えたまま動こうともしないこのショットは申し分のない美しさにおさまっており、アッケルマンはキャメラをどこに置くべきかを知っている映画作家だと誰もが納得する。殺風景なまでに乾ききったメキシコの大通りを望遠気味で捉えた導入部のイメージなど、素晴らしいとさえいえると思います。

 
にもかかわらず、アッケルマンのキャメラとともに悲しみにくれる老婆を見ているわれわれは、すぐさまいたたまれない思いにつき落とされてしまいます。確かな耳の持ち主なら、ポケットのハンカチーフを探ろうとする老婆の腕が胸のマイクに触れてしまうため、彼女の声がときに濁って響くのを聞き漏らしはしないからです。実際、ドレスの胸元にそえられた小さなマイクからは、この種の機材特有の短いワイヤーが彼女の腰のあたりまで醜く伸びている。それが堂々と画面に映っているのに気づくとき、われわれは、見てはならぬものを目にしてしまったかのようにうろたえるしかありません。この老婆を視界におさめ、その言葉に耳を傾けていることは、このマイクの雑音を聞き、このワイヤーを見ることとほとんど同義語となるしかないからです。だが、それでよいのでしょうか。
 
それでよいのでしょうかという問いは、二つのことを意味しています。映画作家としてのシャンタル・アッケルマンが、編集の段階で、あるいはすでに撮影中から、マイクの雑音を聞き、そしてワイヤーのたれ具合いを目にしていながら、それでもこの画面は、自分が求めている映像として、また音響として成立すると思っていたのかどうかというのが、一つです。また、まぎれもなくその雑音を耳にし、そのマイクとワイヤーとを目にしてしまった者が、それを正常な事態として受け入れてよいのだろうかというのが二つ目のものとなります。そこには、この種の撮影をめぐる技術的な問題を超えた何かが露呈されているように思えてなりません。わたくし個人としては、老婆の胸にそえられたマイクとワイヤーとを目にしてしまった瞬間から、作品そのものの存在を素直に受け入れがたく思うしかなかったのです。
 
『向こう側から』の残りの部分を居心地悪く見終えたわたくしの心を占めていたのは、フレデリック・ワイズマンならこの問題をどう処理しただろうという問いでした。また、小川伸介ならどうしただろうかという問いでもありました。さらには、彼より遥かに若い世代のペドロ・コスタならどうしただろうかとつぶやきつづけていたのです。ワイズマンのドキュメンタリーが、被写体となる人物に隠しマイクをつけないことを原則として撮影されているのは誰もが知っていることです。彼にあっては、被写体の声はブームの先につるされたマイクで記録され、多くの場合、画面に見えないようにそれを操るのは監督自身です。それは、技術の問題であると同時に、おそらくは撮ることの倫理にかかわる問題でもあるでしょう。実際、よほどのことがないかぎり、私は被写体にマイクはつけない、という彼の言葉が思い出されます。
 
「撮る」とは何にもまして「見る」ことにほかならず、間違っても「見せる」ことではない。ましてや、「聞かせる」ことでもないはずです。ところが、「見せる」こと、「聞かせる」ことで事態を説明しようとするテレビは、あの醜いマイクをあえて隠そうともしません。その意味で、テレビはつつしみのないメディアであり、そのことを恥じる気配もないし、またそれで成立するものなのかもしれません。本来つつしみを欠いているのが大衆消費社会なのだから、それはそれで仕方のないことなのでしょう。にもかかわらず、あるいは、であるが故に、撮るたびに「見る」ことが倫理として形成される映画の役割がかつてなく求められているはずだと思えてなりません。21世紀においてもなお映画が必要とされているのは、そのためにほかならないからです。
 
ことによると、『向こう側から』のアッケルマンも、この場面では、テレビのように「見せる」こと、「聞かせる」ことに意味を見いだしており、あえて「見る」こと、「聞く」ことを自粛したのかもしれません。だが、それは、21世紀の映画作家にふさわしいやりかたなのでしょうか。その言葉で、野心作であることは否定しがたい『向こう側から』を撮ったこの映画作家に難癖をつけようとしているのではありません。彼女が、人物や風景を「撮れる」監督であることは間違いないからです。にもかかわらず、あのマイクとワイヤーを画面に放置したことで、映像として、また音響として、彼女が何を得たと思っているのかを心底知りたいと思います。それと同時に、上映時間180分を通してわれわれにそんな居心地の悪さなど一瞬たりともいだかせなかった『ヴァンダの部屋』のペドロ・コスタが、そうした事態をどのように考えているかを知りたいとも思っているのです。
 
おそらく、いま新作を撮影中のペドロ・コスタは、自分のことで精一杯だから、他人の問題に介入する気などありはしないというかもしれません。とはいえ、このポルトガルの監督が、被写体となる人物の胸に小さなマイクをつけてから撮影に入るといった光景を想像することはとてもできそうにありません。そうしなければ撮れないような被写体を前にしたなら、彼はあえて撮らないことを選択するだろうとさえ思うのです。この確信はほとんど故のない思いこみにすぎず、彼が彼女の仕事を高く評価していることだって充分にありうる。にもかかわらず、ついそう確信させてしまうところが、『ヴァンダの部屋』の圧倒的な素晴らしさなのだといわずにはおれません。実際、この傑作は、「見せる」人ではなく、「見る」人としての映画作家への信頼を豊かにもたらしてくれる。
 
 
 
2004年2月
 
 
 
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