高度な活劇として一見に値する――トニー・スコット『マイ・ボディガード』

蓮實重彦

近年のアメリカ映画ではごく稀なことだが、トニー・スコットの映画には一目でそれとわかる彼ならではの文体がそなわっている。その意味で、アカデミー賞から「サー」の称号まで何でももらってしまう兄のリドリーより遥かに個性的な映画作家だといえるはずだが、トニーの国際的な評価は不当なまでに低く、ほとんど無視されているのが現状だ。

では、彼ならではの文体とはどんなものか。『マイ・ボディガード』(04)でもそうだが、このイギリス出身の監督のキャメラはたえずいらだたしげに動きまわり、ズームを多用したいくつもの多重露出のショットに、やや望遠気味にとらえられた人物のクローズアップがごく短く挿入される。その点では、これしかないというたった一つの的確な構図で事態を納得させることより、音楽につれてめまぐるしいリズムで画面を交錯させてゆくことを選ぶ彼の演出は、テレビのCM出身監督の最悪のパターンと揶揄されても不思議ではない。

にもかかわらず、雲のかかった高山を遥かにのぞむ長い陸橋を舞台としたこの新作のクライマックスの人質交換のシークェンスのように、距離を思い切りきわだたせつつ敵味方の配置を視覚化してみせる彼の空間処理は、ときに忘れがたい瞬間を視界に浮上させる。実際、『エネミー・オブ・アメリカ』(98)の冒頭の湖畔での要人暗殺シーンほど充実した犯罪の演出は、爆発や崩落の視覚的な効果で事態を処理しがちな最近のアメリカ映画ではまずお目にかかれないものだった。それでいて、彼の独特な演出がそれにふさわしく評価されていないのは、要人暗殺だの人質交換といった、「芸術」とはおよそ無縁の活劇的な題材に彼の資質がきわだつからである。

実際、『ブレードランナー』(82)の「芸術」的な成功で作家としてハリウッドでの地位をきずいた兄のリドリーとは異なり、『トップガン』(86)でヒットメイカーの仲間入りをはたし、『ビバリーヒルズ・コップ2』まで涼しい顔で撮ってしまう七歳年下の弟トニーの場合は、シネフィルの敬意を受けとめたことも、批評家による「作家主義」的な擁護の対象となったこともまずないといってよい。『エネミー・オブ・アメリカ』が多少とも評価の対象とされたのは、合衆国型の管理社会批判ともとれるその主題によってにすぎず、彼は、またしてもエンターテインメントの職人という範疇に括られてしまう。こうした大方の無視にさからうタランティーノだけが、処女作『レザボア・ドッグス』(91)でトニー・スコットに感謝を捧げ、『トゥルー・ロマンス』(93)では彼に独創的な脚本を提供しており、世代を異にするこの二人の監督の関係は、映画にとっては、交際が噂されるソフィアとクエンティンのそれより遥かに意義深いものだ。

もっとも、『マイ・ボディガード』を見るにあたって、漠とした不安がなかったわけではない。誘拐産業が華やかな展開をみせるメキシコが舞台と聞けば、誰もがペッキンパー的な血なまぐささを想像する。だが、この作品の物語は首都に設定され、ブルジョワ的な旧家の階級的頽廃を背景として、ときにドビュッシーなど響かせながら、幼い一人娘とボディガードとの交流が描かれているのだが、デンゼル・ワシントンはどちらかといえば潔癖な役柄を好む俳優なので、妥協など朝飯前のトニー・スコットが、彼に遠慮して無性の暴力描写を避けはしまいかと危惧されたのである。

だが、それは杞憂に終わる。巧妙に仕組まれた娘の誘拐事件をきっかけに、オスカー歴さえ持つここでの黒人俳優は、かつての殺伐としたテロ対策エージェントへの絶望から酒浸りとなっていたみじめな人物像をいきなり自分のものとし始め、ありとあらゆる凶暴な火器を動員して、犯罪組織の抹殺を平然と目論む。対戦車ロケットをかかえた彼が見知らぬ老人夫妻宅に押し入り、脅える二人を冷静になだめつつ、窓から敵の大物を狙う場面の演出など、ユーモワとサスペンスが調和し、なかなか堂に入っている。

かつての同僚クリストファー・ウォーケンをはじめ、悪徳弁護士のミッキー・ローク、インターポールにもいたという捜査主任のジャンカルロ・ジャンニーニ、彼と情を通じているらしい新聞記者のレイチェル・ティコティンなど、久方ぶりに見る者を納得させるキャストが組まれている。それぞれの活躍場面があと一つか二つ撮られていたはずだが、おそらくは時間の関係で切られているのがいかにも残念だ。誘拐された少女と復讐を誓うボディガードがたどる運命については触れずにおくが、ここでは、高度な活劇として『マイ・ボディガード』は一見に値するとのみ断言しておく。

 

初出:『Invitation』2004年10月号(20号)

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