これは贅沢モードに徹して撮られた映画だ――塩田明彦『カナリア』

蓮實重彦

こんどばかりは思いきり贅沢をさせてもらう。『カナリア』(04)の塩田明彦は、そう自分にいいきかせているかにみえる。こんどというこんどは、贅沢を自粛するつもりはない。その代償として、危ない橋をいくつでも渡ってみせる覚悟がある。彼は、そうも口にしているかのようだ。実際、塩田明彦の新作には、贅沢な瞬間がみちあふれている。それは、少年(石田法嗣)がいきなり走り始める導入部のもたらす興奮として、フィルムのすみずみにまでゆきわたる。この贅沢さへの確固たる意志は、処女作『月光の囁き』(99)いらい少年少女専科とみられがちな塩田明彦が、『黄泉がえり』(02)で予期せぬ興行収入を上げてしまったことからくる自信の現われだろうか。それとも、『どこまでもいこう』(99)の題名そのものが秘めていた過激さをいよいよ実践するときが来たという、映画作家の決意の表明だろうか。

塩田明彦の『カナリア』は、これまでの彼の作品と似ているようで、何かが決定的に異なっている。それは、質というよりモードの差異として見る者を不意打ちする。そう、これは、徹頭徹尾、贅沢モードで撮られた作品なのだ。勿論、映画にあっての贅沢は、画面の見かけの豪華さなどとはいっさい無縁である。『カナリア』の監督が自粛しまいと心に決めた贅沢とは、単純さに徹すること、それも運動することの単純さに徹することにほかならない。その贅沢さは、思いつめた目つきの少年に、関西から首都圏まで日本を縦断させるという構想の実現として、すぐさま画面から迫ってくる。だが、それだけが贅沢ではない。疾走する少年のかたわらに、同じ年齢の少女を配することの贅沢さをもとことん玩味させてもらうつもりだ。塩田明彦は、そうも自分にいいきかせているかにみえる。

それにはどうするか。監督の計算はごく単純なものだ。山野をかけ抜ける少年が、いきなり道路に走り込んでくればそれでよい。たまたま山道を走っていた車がそのショックでハンドルを切りそこね、田圃に転倒する。それに少女(谷村美月)を乗せておけば、二人は人里離れた田園地帯でぶっきらぼうに遭遇せざるをえない。それぞれが人目を避けねばならぬ理由を持っている少年少女は、たちまち同じ方向に走り出すだろう。せっぱつまった二人の表情を間近からとらえるショットがいくつかあれば、その否定しがたい強度が、事故の唐突さをたちまち視界から一掃してくれる。監督は、この突発事故の導入にいささかの戸惑いも示してはいない。それが、贅沢に徹した映画作家の強さというものだ。

『カナリア』は、走る身振りの映画であると同時に、寡黙な少年少女の顔の映画でもある。説明することの無効さを知り抜いた幼い二人の無表情をキャメラにおさめること。それもまた塩田明彦が自粛せずにいる贅沢だからである。実際、走る二人を追っていた手持ちキャメラは、二人のクローズ・アップではしっかりと固定され、その無表情を風景から鮮やかにきわだたせている。こうして、少年少女は、殺気を秘めて田園地帯をかけ抜け、戸惑いをおし殺して都会の夜を徘徊し、妥協のない粗暴さで相手をつきとばしたりしながらも、運動を放棄することはない。その運動をひたすら追い続けることの、何たる贅沢!

『害虫』(01)の宮崎あおいも無表情だったと人はいうかも知れない。だが、彼女のかたわらには、『カナリア』のように、無表情な同じ年齢の少年がよりそってなどいなかった。東京をめざす列車の座席で、あるいは首都郊外の殺風景なコイン・ランドリーのかたすみで、疲労から、途方に暮れて肩を寄せあう少年少女のいつ壊れても不思議でないあやうげな均衡にキャメラを向けること。それもまた、塩田明彦が自粛せずにいる贅沢にほかならない。

平成日本の寡黙な少年少女を使って、ジョン・フォードの『捜索者』(56)をリメイクするかのごとき贅沢がはたして許されようかという批判もたぶんあるだろう。だが、『カナリア』のさらなる贅沢は、少年少女のまわりから家庭の影を一掃しえたことにある。もちろん、台詞やフラッシュ・バックでおよその家庭環境は語られているし、少年の日本縦断が祖父に保護された妹の奪回にあることも早い時期から明らかにされている。だが、二人の疾走の起源となる瞬間は描かれてはおらず、映画が始まったとき、少年少女は、ジョン・ウエインがモニュメント・ヴァレーにいるように、かけ抜けるべき風景の内部にしっかりと自分を位置づけている。その意味で、二人の運動は高度に抽象的であり、ひたすら東をめざすのみである。塩田明彦は、その抽象的な形式性を、そのつど被写体である幼い二人の生々しい無表情やぶっきらぼうな身振りによってしたたかに視界から遠ざけてみせる。

その抽象的な形式性は、平成日本の社会的な風俗をあざとくとりこむことで成立する。少年が孤独に田園地帯をかけ抜けるのは、オウムを思わせる宗教的権威に翻弄された家族の犠牲者としてであり、思わず彼に同行する少女は、十二歳だというのにあっけらかんと援助交際を実践している。徒歩で山を越えようとする二人の前には訳ありげなレスビアンのカップルが車で登場するのだが、こうした社会風俗の導入ぶりは、贅沢を自粛しまいとする映画作家が渡るべき危険な橋にほかならない。監督は、無表情な少年の手が子持のレスビアンの肩にそっとそえられる長いショットで、その危険を聡明に回避してみせる。

『カナリア』の塩田明彦が率先して享受したもう一つの贅沢、それはプリントが失われた小津安二郎の幻の作品『美人哀愁』(31)の主演女優の井上雪子を六十年ぶりにスクリーンに登場させ、少女の名前を「ゆきちゃん」と呼ばせていることだ。この神話的な女優の役柄については、少年少女の日本縦断の結末同様、ここでは触れずにおく。いまはただ、かつての昭和の一時期のように「贅沢が敵」ではなくなった平成日本を、『カナリア』とともに祝福しておくこととする。

 

初出:『Invitation』2005年3月号(25号)

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