ジョン・フォード『幌馬車』――この贅沢な「B」級映画をどう見るか

蓮實重彦

ジャン=マリ・ストローブとダニエル・ユイレは、1975年に初めてアメリカ合衆国を訪問します。二人の作品『モーゼとアーロン』(1974-75)がニューヨーク映画祭で上映されることになったからです。徴兵忌避でしばらくフランスに住めなくなっていたストローブは、1960年代から70年代にかけて、ドイツやイタリアでの亡命生活を余儀なくされていました。パートナーであるダニエル・ユイレも、その間、たえず行動をともにしていました。マルクス主義者でブレヒトの精神的な弟子を自認していたストローブは、ユイレとともに『妥協せざる人々』(1964-65)や 『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(1967)を撮り、政治的にも芸術的にももっとも先鋭な前衛作家と見なされていました。

ところが、その二人がニューヨークに着くなり、いきなりジョン・フォードが見たいといいだして、当時の映画祭ディレクターのリチャード・ラウドを面食らわせることになります。フォードはすでに1973年に逝去していますが、彼の晩年には、ヴェトナム戦争を支持したり(孫の一人が軍人だったという、家族的な理由にすぎませんが)、評判の悪いニクソン大統領から勲章をもらったりしていたので、保守反動のきわみと思われていました。遺作となった『荒野の女たち』(1966)も合衆国ではほぼ無視されていました。当時のニューヨークの知識人たちにとって、フォードはほとんど忘れられた存在で、むしろ思い出したくない映画作家だったともいえます。そんな「過去の人」を、「ヌーヴェル・ヴァーグ」出身のマルクス主義的な「前衛作家」が見たいというのですから、ニューヨーク知識人の間に混乱や戸惑いが生じたのも当然だったのでしょう。

フォードを見たいといいつのる二人への対応は、若い無名の青年にまかされることになります。ストローブとユイレは、彼のロフトの床に寝そべり、16ミリによるフォード作品の上映にいたってご機嫌だったようです。ヴィデオやDVDが普及するより遙か以前のことですから、フィルムで見ることが作品に接する唯一の手段だったのです。ストローブとユイレを自宅に招いてフォードを見せた青年は、それから10年後に『ジョン・フォード――人と作品』(John Ford: the man and his films)という大部の著作を出版することになるタグ・ギャラガーにほかなりません。

このエピソードから引き出せる教訓は三つあります。一つは、国籍を問わず、人々が自国の映画に対して冷淡になりがちだということです。事実、アメリカ人は、フランスの「カイエ・デュ・シネマ」系の批評家たちがホークスやヒッチコック(イギリス出身ではありますが)を絶賛するまで彼らの作品を語るべき批評言語を持っていませんでした。フォードの場合は、「カイエ」の精神的な主柱アンドレ・バザンがその魅力にいたって鈍感だったので(誰にも好き嫌いはあるとはいえ、初期「カイエ」のフォード嫌いは、バザン・ウイルスに多くの人が汚染されていた感があります)、フランスにおいてもその発見が遅れていました。そんなこともあって、ニューヨーク映画祭のリチャード・ラウドは、自国の作家フォードをまともに評価していなかったのでしょう。

二つ目の教訓として、社会に支配的なイデオロギーが、人々から作品を見る力を奪いがちだということが挙げられます。一方はマルクス主義的な「前衛作家」であり、他方は保守反動の「古典的作家」だという分類が、作品を見る以前に批評家たちの視線を歪めてしまうのです。これは70年代の合衆国にかぎらず、どの時代、どの国にもよくあることでしょう。三つ目は、映画史という概念の成立に必須の映画を見る機会と場所が、20世紀のある時期まで、世界的にきわめて限定されていたということです。映画である限り、傑作も愚作もすべて上映するパリのシネマテークを除けば、1970年当時、人々が映画史に接する機会はほとんどなかったのです。

では、あらゆるものがヴィデオやDVDで見られるようになった今日、人類の映画史的な視線はより豊かなものとなったかといえば、必ずしもそうとはいいきれません。それは、上映後に、人々が集まって、見たばかりの作品を興奮して語り合うという場が失われてしまったからです。このような場の存在こそ、映画の未来にとっては、大学のフィルム・スタディーズなどより遙かに有効なはずです。このフィルム・フォーラムの「シネクラブ」が、韓国の未来の映画にとって、そうした環境として機能すればと心から願っております。

では、いま、2005年にジョン・フォードを見ることにはどんな意味があるでしょうか。「古典的な作家」だから、監督をめざしたり批評家になろうとしている人は当然見ておくべきだといった義務の意識とは別の何かが必要とされます。さきほど、「映画である限り、傑作も愚作もすべて」見るという体験の重要さを指摘しました。それが重要なのは、封切り当時の批評家たちの支配的な傾向によって、それからはずれた作品は評価されずに終わり、再評価の機会さえ奪われてしまうからです。1920年代後半から30年代の前半にかけて、「ニューヨーク・タイムズ」の映画欄がフォードをどう評価していたのか調べてみたことがありますが、まったくひどいもので目も当てられませんでした。以後、フォードはアメリカ人には任せておけないとの立場を貫いています。

私は、幸運にも、少年時代に「傑作も愚作もすべて」見るという体験を通してジョン・フォードと出会いました。ある時期まで、彼は1年にコンスタントに2本か3本もの作品を撮っていました。その意味で、きわめて寡作なロベール・ブレッソンのようなヨーロッパ的「芸術家」のイメージとは異なり、フォードはアメリカのごく普通な「商業主義的」な作家でした。いまでは到底想像できないことですが、1950年の彼は、『ウィリーが凱旋するとき』『幌馬車』『リオ・グランデの砦』と3本もの映画を発表しています。

フォードと同世代のヒッチコックもホークスも、当時の合衆国には無数に存在した「商業主義的」な監督以外の何ものでもありません。彼らは、今日のマーチン・スコセッシやウディ・アレンほどにも「作家」として社会的に認められてはいませんでした。確かに、フォードは、『男の敵』(1935)と『怒りの葡萄』(1940)と『静かなる男』(1952)の3本でアカデミー監督賞を受賞しています。しかし、そこには1本の西部劇も含まれてはいません。サイレント期にユニヴァーサル社で西部劇の監督としてデビューした彼は、トーキー以後しばらく西部劇から遠ざかっていたのですが、第二次世界大戦後の彼は、ふたたび西部劇というきわめて「大衆的」かつ「通俗的」なジャンルにたちかえり、そのことでかつての作家的な野心を失ったとさえ見なされていたのです。

現在、ジョン・フォードの名前は、合衆国でも、「作家」としてある程度は定着しています。社会的な主題によって評価されがちだった『男の敵』や『怒りの葡萄』のような作品にかわって、『捜索者』(1956)のような西部劇を評価する機運もようやく高まってはおります。しかし、フォードを語るにふさわしい批評言語を人類はまだ見いだしていないというのが私の立場です。オーストラリアのウェヴサイト・マガジンの『Rouge』(http://www.rouge.com.au/)と、フランスの批評誌『Trafic』が、近くフォード特集を予定しており、私も執筆を依頼されていますが、はたしてどんな新たな批評的な視点が読む者を刺激してくれるのか、いくぶんの危惧感を憶えつつも期待しています。

21世紀のいまフォードを見ることには、一つの確かな意味があると思います。それは、サイレント期に作家として出発して、トーキーからスクリーンが大型化したカラー時代まで生き延びた作家たちの作品を見ることの意味です。ホークスでもヒッチコックでも、あるいは小津安二郎や溝口健二でも同じことですが、いずれも脚本に書かれた物語を演出することにはおさまりがつかぬ鮮やかな透明感が彼らの画面にみなぎっています。それは、ゴダールがヒッチコックの『汚名』(1946)の物語は忘れてしまっても、ワインセラーの中に並んだボトルのイメージだけは覚えているという場合のショットの強さにほかなりません。脚本に書かれていたとは思えないショットが意義深い瞬間に挿入されて、それが物語の論理とは異質の領域で作品を活気づけているからです。

ショットの強さとは、見る目を驚かす凝った審美的な構図とはまったく異なるものです。それは、撮影に入る以前から、一本の映画が生きた画面の連鎖として彼らには見えていたからとしかいえないショットなのです。それは、編集権が監督には所属せず、プロデューサーに所属していた当時のハリウッド映画における映画作家たちの、ほとんど本能的といえる抵抗だったのかもしれません。そうしたショットの強さが、サイレントを撮ったことのない黒澤明やフェデリコ・フェリーニFederico Felliniなどの作家には欠けています。だから、彼らは、生きた画面の的確な連鎖より、流れを断ちきるような審美的に凝った構図のショットの挿入によって、映画を捕らえたつもりになりがちなのです。

サイレントを撮ったことはありませんが、たとえばキン・フーの『侠女』(1970)の画面の連鎖の的確さをチャン・イーモウの『英雄』(2002)の画面の無駄な審美主義とくらべてみると、そのことはさらに明らかにあるかも知れません。ハリウッドの古典的な映画をよく見ているはずのスコセッシやベルトラン・タヴェルニエの無駄なショットの連鎖や無意味なキャメラの動きに接すると、彼らが本当にフォードやホークスを見て育ったのかと不思議に思われてなりません。

「前衛作家」ストローブ=ユイレが「古典的」なジョン・フォードから学んだものは、ショットとその連鎖の的確さにほかなりません。勿論、『黒い罪』(1988)のように、不動のキャメラが被写体と時間をかけて対峙している作品は別ですが、『アメリカ』(1986)などには、明らかにフォードを意識したグリフィス以来の編集の原理が活かされています。その意味では、ストローブ=ユイレは、スコセッシなどより、アメリカ映画の伝統に遙かに忠実な作家なのです。だが、不幸なことに、人々はそうした意義深い細部を見る力を失い始めている。というより、人類は、いまなお映画を動くイメージにふさわしく見ることに慣れていないのかも知れません。

そこで、これから御覧になる『幌馬車』についてお話します。これは、1949年に撮られ、50年にRKO作品として公開された作品です。しかし、実質的にはフォードとメリアン・C・クーパーの共同製作による独立プロのアーゴシー・プロダクションの作品で、フォード自身がオリジナル・ストーリーを書いているという点では、きわめて「特別」な作品だといわねばなりません。また、あるインタヴューで、「自分のやりたいことに一番近い作品だ」といっていることからすると、「特別」というより、むしろ「例外」的な作品だとさえいうべきかも知れません。一部ではきわめて評価の高い『荒野の決闘』(1946)ですら、彼はそれを20世紀フォックスの作品としてしかみなしておらず、自分の映画としては見直したことがないといっているほどですから、フォード自身が『幌馬車』の出来映えにどれほど満足していたということは明らかです。また、その意味では、これはまさに「特別」で「例外」的な作品だといえるかも知れません。

では、その「特別」性と「例外」性とは、フォードにとってどんなものなのでしょうか。プロデューサーや観客、あるいは批評家の評判をも無視して、自分が映画だと考えているものにどこまで接近しうるかをみずから検証するための試みとして、『幌馬車』が撮られたということにほかなりません。その意味で、これは、ある意味で、ほとんど実験的な「前衛映画」なのだといえます。しかも、それは驚くほど贅沢な作品なのです。しかし、その贅沢さは、予算をふんだんに投入することではなく、むしろ、作品からあらゆる無駄な要素をはぶくことからきています。

撮影期間1949年の11月中旬からほぼ1ヶ月と、これはほかの作品とあまり変わりません。しかし予算は、たとえば同じ年に撮られた『黄色いリボン』(1949)が1,851,290ドルだったのにくらべて、848,853ドルとその半額にも達していません。フォードにとって、おそらくこれはもっとも低予算の映画で、いわば「B級」映画なのです。ここには、『駅馬車』(1939)のような息詰まる追跡シーンはありません。『荒野の決闘』のように、クライマックスに銃撃戦がみごとな演出で描きだされてはいません。『黄色いリボン』のように、ジョン・ウェインが陰翳をこめて演じた孤独な人物像も登場していません。『リオグランデの砦』のように、やや通俗的な家族愛の主題が観客を惹きつけることもありません。『捜索者』のように、過剰な愛と過剰な復讐とがドラマを盛り上げてもいません。

では、その贅沢な「B級」映画で、フォードは何を撮ったのか。ゆるやかな運動です。人物がおり、風景があり、その風景の中を人物が動くとするなら、その運動にキャメラを向けることに徹すること。これもまた、きわめて「贅沢」な企画です。風景の中を動く人物が、大スターである必要などないからです。実際、主役はほとんど無名といってよいベン・ジョンソンとハリー・ケリーJr.の二人で、彼らに求められていたのは、颯爽と馬を乗りこなすことにつきていました。西部劇でありながら銃撃戦もほんの一瞬で終わってしまうので、拳銃さばきがうまい必要すらなかったのです。女性を前にするときは、言葉巧みに誘惑の仕草など演じて見せるにはおよばず、弱者に対する騎士道精神が平等に発揮できればそれで充分なのです。

物語がいたって単純であること。人物関係がいたって単純であること。舞台装置がいたって単純であること。この三つの単純さが、男同士の無駄な意地の張り合いや、一人の女性をめぐる対立や、世代間の葛藤といったものを画面から思い切り遠ざけます。いつものフォードなら苦もなくやってのけたような、サスペンス豊かな派手な活劇も自粛しています。冒頭の挿話をのぞけは、舞台は砂漠地帯に設定され、撮影は戸外に限定されます。夜の場面などは、撮影所内のステージのセットですませています。

では、ここでフォードの被写体となる人々は、何のために風景の中をゆっくりと横切るのか。この映画の登場人物のほとんどはモルモン教徒で、理想の地をめざして幌馬車隊をつらね、西部の砂漠地帯を横切ろうとしているのです。アイルランド系のフォードはカソリックですから、モルモン教そのものに強い思い入れがあったわけではありません。複数の人影が、何頭もの馬をしたがえてゆっくりと土地を横断すること。それが、この映画が描くべき唯一の運動なのです。幌馬車隊が川を渡るショットで始まり川を渡るショットで終わっていることが象徴的であるように、この映画の馬はあくまでゆっくりとした動きで水や大地を横切ります。町から追われるように幌馬車隊が出発してすぐにまた川を渡る長いシークェンスがありますが、そこでの主役も間違いなく濡れた馬たちであり、白い幌でおおわれた馬車なのです。サンズ・オブ・ザ・パイオニアーズの男性コーラスをバックに、フォードは、この渡河場面をじっくりと撮っていますので、どうかお見のがしのないよう。

幌馬車隊の隊長はワード・ボンドが演じています。彼の周辺を、フォードの兄貴のフランシス・フォードが大きな太鼓をかかえ、ジェーン・ダウエルが奇妙な角笛を吹きならし、ラッセル・シンプソンが無表情の迫力でかためています。そこに三つの非=宗教的なグループが外部から参加します。まず、護衛として雇われる二人のカウボーイ、これをベン・ジョンソンとハリー・ケリーJr.が演じています。幌馬車隊長が彼らに目を付け、護衛に雇い入れるのですが、その交渉の場面が素晴らしい。暴れていななく馬の群を背にしながら、戸外の日当たりのよい柵にもたれかかったワード・ボンドとベン・ジョンソンが、小さな棒きれをナイフで削りながら条件を語り合うシーンです。重要なシーンをあらかじめお話ししてしまうことは自粛するつもりですが、この交渉の場面で、二人が向かい合っていないことだけはあらかじめ指摘したいと思います。ジョン・フォードは、二人を構図=逆構図のリヴァース・ショットで交互に示すというハリウッドの官僚主義的な編集を断固避けているのです。何の事件も起きませんが、これがさきほどいったショットの強さにほかなりません。実際、脚本に、二人はナイフで棒きれを削っているなどと書かれていたはずもありません。

幌馬車隊は、旅の途中で医師を名乗る香具師めいた男と、砂漠にはふさわしからぬ派手な身なりの女性二人が馬を失って立ち往生しているのに出会います。男は無知な人々を騙して商売しているいかがわしい薬売りで、かつては酒場女だったに違いない女性たちはその宣伝係らしい。インチキ医師をアラン・モーブレイが、場違いなイギリス英語を操りながら滑稽に演じ、女の一人がジョーン・ドルーが、フォード独特の乾いた色気をもって演じています。そこに、伯父に率いられた銀行強盗の兄弟たちが登場し、信仰深いモルモン教徒と対立することになるのですが、単純な「善」と「悪」といった図式的な構図にはおさまり切ることはありません。ドラマティックなクライマックスをかたちづくらないことが、『幌馬車』のつきぬ贅沢さであることをどうか忘れずに御覧いただきたいと思います。

上映時間は86分。ゴダールが理想とした「B級」映画の長さです。ちなみに、『勝手にしやがれ』の上映時間はそれより正確に4分長い90分でした。

 

出典:2005年5月25日、韓国ソウル市で行なわれたフィルム・フォーラムでの講演

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