老齢であることの若さについて――「変貌」するゴダ-ル

蓮實重彦

サラエヴォへと向かう娘や甥から逃れるようにしてパリに舞い戻ったヴィッキーは、カフェに腰をおろしてひとりビールを飲む。誰とも言葉をかわすことなくグラスを傾ける老齢の映画作家のまわりには、都会の夜の気配がテラスのガラスごしに無慈悲にしのびよってくる。ごく短いショットがとらえるこの小柄な男の横顔には、色濃く孤独の影がさしている。『フォーエヴァー・モーツアルト』の監督ジャン=リュック・ゴダ-ルほど著名な人物ともみえないが、やや視線を伏せたまま、彼はしきりに思いにふけっているかにみえる。その思いは、深い悔恨に彩られているのだろうか。屈辱だろうか。無力感だろうか。それとも、思考のまったき不在と裸で向かい合うことの戸惑いだろうか。

戦火のサラエヴォでミュッセの戯曲『戯れに恋はすまじ』を上演することを思いたった娘カミーユは、いとこのジェロームと語らい、イスラム系メイドのジャミラまで道づれにして、20世紀の宿命的な廃都めざしていちもくさんに走り出してしまった。カミーユから同行を求められた自分には、もとより彼らのひたむきな疾走をおしとどめることなどできはしない。この自分に可能だったのは、彼らの前から黙って姿を消すことぐらいでしかなかった。このショットをみたしている映画作家の沈黙は、『フォーエヴァー・モーツアルト』でこれまでに起こった事態を簡潔に要約しているかにみえる。それにしても、あの無鉄砲な若い男女は、いま、どうしているのだろうか。難儀しつつも、目的地にたどりつくことができたのだろうか。

ことによると、そんな想像をめぐらす権利さえ、自分には認められないのかもしれない。声にだすことなくみずからにそうつぶやきかけるヴィッキーは、またしても、「歴史」と出会いそびれてしまった自分を恥じているようにもみえる。実際、ボスニア紛争を回避するしかなかった彼は、せめて、自分の世代が立ち会いえなかったスペイン戦争へのこだわりを納得しようと、マルローの『希望』を戯曲として上演する企画に取り組んでいる。そのため、マドリッドまで行って必要な文献を買い求めもしたし、役者のオーディションさえ始めていたところだ。映画を撮ることなどなかばあきらめかけていたヴィッキーは、演劇という、映画とは異なる表象手段をふと試みてみる気になっていたのである。しかるべき年齢に達したこの映画作家には、いま転機にさしかかっているという鈍い意識があったのだろう。

そこに、降ってわいたように、『宿命のボレロ』とやらのいかがわしい企画が舞い込む。資金を提供するのは、「男爵」を名乗る年輩の富豪である。脚本家は別に用意されているというのだから、これはまったくの雇われ仕事だ。失業中の哲学教師である娘は、思ってもみない提案に心を動かされる父親を口汚く罵り、サラエヴォへの同行を強く求める。彼女のたっての願いを聞き入れ、途中まで若者たちと曖昧に行動をともにしながらも、結局は彼らを置き去りにして安全なパリに戻り、持ち込まれた新作の企画を実現に移そうとしている。最終的な承諾の言葉を口にしさえすれば、「男爵」からしかるべき金額の小切手が送られてくるはずだ。その小切手一枚のために、ヴィッキーは、「この腐敗しきった、自ら浄化する術すら知らぬヨーロッパ」で、またぞろ映画など撮ることになるだろう。だが、映画作家が映画を撮って何の不都合があるというのか。彼は、そう無理やり自分にいいきかせているようにもみえる。

もちろん、これはゴダールの映画なのだから、たった一つのイメージを饒舌な言葉で補足するナレーションなど音として流れたりするはずもない。実際、それ自体としてはごくぶっきらぼうなこのショットは、ビールを飲んでいるヴィッキーの姿を、ほんの一瞬、視界に浮上させるにすぎない。いま見たような老映画作家の心の揺れがそこにこめられていると思い込む権利など、本来ならだれひとり持ってはいないはずである。

にもかかわらず、ゴダールにあってはいかにも稀なことだが、このショットを導きだしている画面の連鎖には、見るものに、あえてそんな心理的文脈をたどらせてしまう何かがこめられている。映画作家がひとりでビールを飲む直前のシークェンスは、彼がその安否を気づかって何の不思議もない娘のカミーユがパルチザンの人質となり、その裸の白い尻を戦士たちの視線にさらしている光景で終わっているからだ。彼が置き去りにしてきた若い男女の身には、屈辱的な危機が迫っていたのである。

だが、それにしても、これはいかにも奇妙な事態だというべきではないか。ジャン=リュック・ゴダールが、二つの異なる空間でのできごとを交互に示し、それらを結びつける説話論的な脈絡を提示するといった念入りな演出をすることなど、ほとんどなかったからである。しかも、その脈絡を支えるものが「父」と「娘」という血縁関係だったことなどこれまで一度としてない。その意味で、人はあくまで例外的な状況に立ち会っているのだといわねばならない。

実際、これまでのゴダールのフィクションでは、家族は希薄な影として漂っていたにすぎない。その単位もほとんど夫婦に限られ、『軽蔑』いらい、『万事快調』を通過して『ヌーヴェルヴァーグ』にいたるまで、夫とその妻、あるいは愛人がさまざまな危機に瀕することが口実としての物語を支えていたにすぎない。そこには、親と子の演ずべき役割など、まったくといっていいほど認められなかった。なるほど『カルメンという名の女』には、姪と叔父という関係が描かれてはいる。だが、ジャン叔父と呼ばれるゴダールその人がカフェでいきなり「ブリオッシュ!」と声をあらだてただけで、そんな血縁関係はあっさりはじけとんでしまった。実際、精神病院で手厚く看護をうけている失業中の映画作家ジャンは、姪の身の上のことなど、これっぽっちも考えてはいない。

サラエヴォへの旅を準備する父娘ヴィッキーとカミーユの間では、演劇においては戯曲の作者が父親で、それを演じる俳優が母親だといった奇妙な関係が比喩的に語られてはいる。だが、ここでも、両親と子供という関係は、比喩としてさえ話題にはなっていない。ところが、この作品では、その冒頭から、兄と妹だの、叔父と甥だの、叔母と姪だのといった、これまでのゴダールでは見たこともない入り組んだ家族構成が登場し、見るものを戸惑わせる。

その意味で、『映画史』とかさなりあうようにして撮影され、1996年に完成した『フォーエヴァー・モーツアルト』は、ゴダールのフィルモグラフィーの中で、まぎれもなく例外的な作品だといわねばならない。しかも、ヴィッキーがビールを飲むショットには、現実的な父親の妥協と理想主義的な娘の殉死といった、アンチゴネー的ともいえる親子関係の屈折が読みとれかねない画面の連鎖が形成されている。ゴダールの意図にかかわりなく、そんな心理的文脈にそって物語をたどろうとするものがいても不思議ではなく、それを押しとどめる力はいっさい作用していない。ヴィッキーが姿を消す直前にカミーユがかぶっていた横縞の帽子が、なぜか痛ましいイメージとして残ってしまうのだ。いったい、ゴダールに何が起こったというのだろうか。

見るものが驚かされるのは、ここに、ある種の「クレショフ効果」ともいうべきものが作動していることだ。横たわる裸の女性のイメージに男の顔のクローズアップが続けば、その表情にいやでも淫乱さが読みとれてしまうというあのレフ・クレショフの提起した編集効果が、まぎれもなく認められるのである。だから、画面の前後関係によって、あたかも、この映画作家が娘の不憫な身の上を嘆き、自分の身勝手な振る舞いを悔いているかのようにこのショットを読みとる人がいても決しておかしくはない。

だが、それはいかにも凡庸な事態の推移ではなかろうか。そんな演出なら、「ヌーヴェルヴァーグ」が精算したはずのマルセル・カルネにも、クロード・オタン=ララにもできたはずだからである。「良質」のフランス映画や「詩的レアリスム」は、むしろその種の効果を期待しつつ撮られていたとさえいえる。「ブレッソン的」とも「ルヴェルディー的」ともいうべきモンタージュが「美しき心遣い」として擁護されていたゴダールの『映画史』では、そうした映像と音声のほどよい調和をとりわけ否定することが目指されていたはずではなかったのか。

『映画史』の「4A」で語られている「アルフレッド・ヒッチコックの方法序説」で何が語られていたかを思い出してみるなら、ここで起こっていることがどれほど異常な事態であるか、誰にも理解できるはずだ。実際、ヒッチコックが擁護され賞賛されていたのは、『海外特派員』の「ジョエル・マックリーがオランダに何をしにいったか」をまったく憶えてない人でも、風邪にさからって回転する「風車のことは……よく憶えている」からに他ならない。それは、『カルメンという名の女』のゴダールがもたらした「ブリオッシュ!」の一語をほとんどの人が憶えていても、それがどんな状況において口にされたものであったかは誰も憶えていないのと同じことである。ところが、『フォーエヴァー・モーツアルト』を見たものは、どんな事情があってヴィッキーがパリでビールを飲んでいるかもよく憶えているし、そのショットにはりつめている冷たい孤独の痛みもまたよく憶えているのである。

それにもまして驚くべきは、パリに戻った映画作家が孤独にビールを飲む画面が、この作品に正確にニ度も姿を見せていることである。しかもその二つのショットに挟まれたかたちで、銃殺刑に処せられようとしている娘と甥が、乱れた服装のまま、泥まみれでみずからの墓穴を掘り、突然の砲撃に混乱する戦場で、誰のものともわからぬ流れ弾にあたって絶命してしまうシークェンスが語られている。この律儀なまでの丁寧さは、いったい何なのだろう。実際、おそらくカミーユのものだろう地面に投げだされた裸の足首のクローズアップに続いて、ふたたび映画監督ヴィッキーがパリのカフェでビールを飲む短いショットが挿入されるとき、人は、ここでの画面の連鎖がどうも念入りすぎるといった印象を否定しがたい。そんな贅沢な余裕を、これまでのゴダールの映画が、見ているものに許しただろうか。

この二つのショットには、「ここ」との対比において「そこ」での戦闘場面を物語に導入し、かつ、それに決着をつけるという額縁のような効果が仕掛けられている。いつになく律儀な演出家ゴダールの振る舞いに、人はある種の居心地の悪さを覚えずにはいられない。それほど念入りな構成は、ゴダールにはふさわしからぬ説話論的な配慮といわざるをえないからだ。

実際、無方向に炸裂する映像と音響とで見るものを戸迷わせ、同時に、脈絡を欠いた「断片」としての細部の強度によって見るものを深く魅了してもきたゴダールが、ここではむしろ、ごく穏当な身振りで文脈の形成を心がけているかにみえる。『フォーエヴァー・モーツアルト』の作者は、「断片」を放棄し、「脈絡」の人へと変容しようとしているのだろうか。それとも、それとは次元を異にする変容の必然的な帰結として、心理的ともいえる文脈による映像と音声との統合が機能してしまうのだろうか。

ゴダールはこれまでに二度、フィクションとしての戦争を描いている。『カラビニエ』とこの『フォーエヴァー・モーツアルト』がそれである。『カラビニエ』における戦闘場面は断片的な映像と音響からなっており、そのこと故に、奇妙な現実感が見るものをつらぬいていたものだ。そこでは、戦争を映画的に表象するというより、それをめぐる意識を素肌のまま喚起することが目指されていたといってよい。そのため、「戦争の恐ろしさについて、観客は不器用なだけでなく、不愉快で、気持ちを傷つけるような場面を見いだすだろう」(クロード・モーリヤック)といった反応を始め、「このフィルムは、大急ぎで撮影され、やっとのことで編集され、つなぎ間違いをあちこちに混ぜて作られたショットの連続にすぎない」(ジャン・ロシュロー)といった反応まで、おおむね否定的な評価が下されたのである。つまり、これは「戦争」に似てもいなければ、「映画における戦争」にも似ていないと多くの人に断じられた。「この映画は出来が悪く、照明も悪く、何もかも悪い」(ミッシェル・クルノー)。

こうした反応は、いわゆる初期のゴダールの映画が、それの封切られた当時、どのようなものとして受けとめられていたかを思い出させる貴重な資料を構成している。まず、戦争というものに対して映画がとりうる姿勢は一定の許容度が存在しており、ゴダールの『カラビニエ』はそれを遥かに超えていると判断されたということがある。さらに、映画を撮るには、それにふさわしい撮影と、編集と、画面の連鎖が尊重されねばならないが、『カラビニエ』はその基準を大きく逸脱していると判断されもしたのである。その結果、これは『映画』にも、『映画における戦争』にも似ていないとみなされたのだ。

それに対して、ゴダールは律儀な反論を試みている。ここにでてくる戦闘機は、すべてそれが搭載しているエンジンの音を忠実に響かせており、ここにでてくる自動小銃は、まぎれもなくその機種の発射音を忠実に響かせている。『地上最大の作戦』のストックショットをダリル・F・ザナックから譲り受けるようなことはいっさいしていないので、この作品の戦争場面は、ほかのどれにもまして真実に近いはずだと彼は続ける。市場に出回っているもっとも精度の高いコダックXXのネガで撮影され、編集には『勝手にしやがれ』以上の時間がかけられ、録音はレネやブレッソンにも劣らぬ入念さで行なわれている。彼は、『カイエ・デュ・シネマ』に発表した「カラビニエを撃て」にそう書いているのだ。

おそらく、というよりまぎれもなく、ゴダールの反論は決定的に正しい。にもかかわらず、これは「映画における戦争」にどうも似ていないと論じるものたちの反応の「正直」さも、否定しがたい現実として残る。そうした「正直」な反応を惹起しているのは、『カラビニエ』が戦争の映画的な表象を目指してはおらず、映像と音声の強度によって、その等価物を意識に提示しようとしているからにほかならない。「不器用」で、「不愉快」で、「気持ちを傷つけ」、「大急ぎで撮影され」、「やっとのことで編集された」ような印象を与え、「何もかも悪い」と判断されるのはそのためである。だが、そんな印象など、『フォーエヴァー・モーツアルト』はほんのひとかけらももたらしはしない。

だとするなら、戦車が三台も木立をぬって登場し、砲弾が人物の至近距離で派手に炸裂し、にわかには識別しがたい外国語が飛び交うという『フォーエヴァー・モーツアルト』の戦闘場面の殺伐とした臨場感は、むしろ『カラビニエ』の対極にあるというべきなのだろうか。ゴダールが敵視したスタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』に似ているとまではいわぬにしても、これは、戦闘場面としてたしかに「よくできている」。しかも、それがおさまるべき脈絡さえ誰もがたどることができる。では、ゴダールは変貌したのだろうか。

ここまで述べたことがらは、ことによると、映画作家ヴィッキーを演じたヴィッキー・メシカの妙に身近な存在感と無縁ではないのかもしれない。実際、ここでのヴィッキー像には、これまでのゴダールの作品で映画作家を演じたいかなる俳優にもまして、さりげなく人の心を惹きつけ、それに揺さぶりをかける何かがそなわっている。どこかしらジル・ドゥルーズを思わせる風貌といい、セリフを口にするときの声の抑揚といい、無言の後姿が喚起しうる翳りの多層性といい、映画ではほとんど無名に近いこの俳優は、周囲のあらゆる要素をしなやかに交流しうる無数の気孔を全身にまとっているかにみえる。融通無碍な多孔質の存在といったらよいだろうか、とにかく排除の身振りだけは演じることのないやわらかさが彼をつつみこんでいる。それに加えて、この作品に出演してからさして時間もたたない時期にヴィッキー・メシカが他界しているという事実が、これを見るものをたやすく武装解除してしまうのかもしれない。

実際、先述の『カルメンという名の女』のジャン叔父を始め、「白痴」を名乗る『右側に気をつけろ』のゴダール自身はいうまでもなく、ゴダール氏という呼び名さえ持っていた『勝手に逃げろ/人生』のジャック・デュトロン、あるいは『映画というささやかな商売の栄華と衰退』のジャン=ピエール・レオーなどとは異なり、同じ映画作家を演じていながら、ヴィッキー・メシカは、およそ排他性を知らぬ輪郭の柔軟さによって、作中人物と深いところで親しく同調している。だから、人は、むしろ、こう問い直すべきなのだ。語のあらゆる意味での「距離」を廃棄しかねないこの俳優の存在が、はたしてゴダールの意図にふさわしいものであったのか否か、と。

この疑問に対する答えは、『フォーエヴァー・モーツアルト』の後半部分に用意されている。『宿命のボレロ』の撮影現場で、ヴィッキーがいきなり厄介な映画作家へと変貌することになるからだ。融通無碍な多孔質の存在としてあらゆるものを受け入れるかにみえながら、同じ一つの仕種で、彼はすべてをこばむことさえできるのである。これこそ、これまでのゴダール的な映画作家が持ちえなかったしたたかさにほかならず、ドイツ・ローマン派的な挫折の美学からこの作品をかぎりなく遠ざけることになるのである。

実際、誰もがコクトーさながらに「何ということだ」と眼をそむけずにはいられない陰惨な光景にも、ヴィッキーはいささかもたじろぐことはない。死体置き場から拾ってきた「まだ息のある」若い女性の死骸を役者にするというプロデューサーのけちな思いつきを彼はたじろぎもせず受け入れてしまう。そして、おそらくは強姦されたものだろうその裸の遺骸を、『駅馬車』のジョン・キャラダインさながらにそっと衣装で覆わせ、その身振りによって、彼は「まだ息のある」死骸を文字通り生きかえらせてみせるのだ。

この蘇生は、驚くべきことに、二重に推移する。まず、瀕死の状態から、キャメラの被写体たりうる女優への遺骸のよみがえりがある。それと同時に、息をふきかえした女性が、サラエヴォで絶命したカミーユへと変貌するといういま一つのよみがえりがある。実際、異なる女優によって演じられていながら、二人はまったく同じ台詞をしゃべるし、まったく同じ横縞の帽子さえかぶっている。それぞれがまったく異なっているが故に、この二つの存在は、あたかも永劫回帰のように同じなのである。

かくして、『宿命のボレロ』は、融通無碍な多孔質な映画作家によって、いつのまにか『戯れに恋はすまじ』へとすりかえられてしまう。その運動をごく自然に導きだすために、ゴダールはヴィッキー・メシカというやわらかな俳優のしたたかさを必要としていたのだ。自分自身が映画作家を演じた場合、こんな手品めいたよみがえりの術などとても披露できないと知っていたからである。

だから、ヴィッキーが、自分は断じて戦争を撮らないと涼しい顔で宣言するとき、そこに作家としての確固たる理念など読んではならない。ミュッセの戯曲に戦争など描かれてはいないのだから。それはごく当然のことなのだ。それに、戦闘場面なら、『フォーエヴァー・モーツアルト』のゴダールが、臨場感あふれるシークェンスとしてすでに撮っており、しかも娘のカミーユはその犠牲になって命を落としたのだから、今度は『戯れに恋はすまじ』の撮影のために彼女をよみがえらせてもらう。そして、この提案をゴダールが受け入れるなら、映画作家という超越的な存在は、いつのまにか曖昧に廃棄されることになるだろう。そのためにも、自分は戦争を撮らない。

ここには、現実の映画作家ゴダールとその虚構の登場人物である映画作家ヴィッキーとの間の、奇妙な相互浸透ともいうべき現象がみられる。二人は、いかにもゴダール的な接続詞「と」で並置されてさえおらず、彼らの間には、ブレヒト的な「異化効果」も、エイゼンシュテイン的な「弁証法」も機能する余地がない。死骸からよみがえった女優とカミーユとのように、ゴダールとヴィッキーは、それぞれ異なっていながらも同じなのである。たがいの一部を融通無碍に交換したり、貸与しあったりしているようにさえみえる。ゴダール自身によるあくまで個人的な決着の試みであった『映画史』にくらべて、『フォーエヴァー・モーツアルト』で耳にする声がいかにもやわらかく響くのはそのためである。妥協とは無縁のこのやわらかさは、ゴダールが『映画史』を代償にして初めて身につけたしたたかさにほかならない。『JLG/自画像』の歴史の孤独がここに希薄なのも、そのためである。

こうした変貌がなお可能であったこの映画作家の若さを祝福しよう。そして、ゴダールとともに、若さが老いといささかも矛盾せず、融通無碍に交流しあっていることを学ぼうではないか。そうすることで、『愛の世紀』の思いもかけぬ若々しさが見えてくるはずだ。事実、この71歳の映画作家の新作が上映されている日本の首都の劇場には、小学生の姿がちらほらみえたりするのである。そんな客層がゴダールにつめかけるこの国が不景気であったりするはずもあるまい。
 

初出:『第III期 批評空間』第4号(2002年)

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