ゴダールの『映画泥棒日記』――『恋人のいる時間』

蓮實重彦

ゴダールの『映画史』がおびただしい数の他人の映像、他人の音響、他人の言葉の交錯からなっていたように、彼自身の作品もまた、他人の映像、他人の音響、他人の言葉の介入によっていちじるしく活気をおびる。ジャン=リュック・ゴダールとは、他人の映像と音響と言葉に占拠されつくされた映画作家にほかならず、自分自身の音響や言葉はいうまでもなく、自分自身の映像さえ、ほとんどといってよいほど彼には存在していない。すべては、他人に帰属していた映像であり、音響であり、言葉なのだが、ゴダールは、作品を撮るたびごとにその帰属関係を荒々しく無視し、自分の側に一挙に引き寄せているかにみえる。彼は、もっぱら映像泥棒、音響泥棒、言葉泥棒としてみずからを確立した映画作家なのであり、その事実を、処女長編の『勝手にしやがれ』いらい、一度として隠したことがない。

盗む身振りをいささかも隠そうとはせず、あからさまな窃盗行為によって映画との折り合いをつけること。まさしく、その無謀な試みこそ、映画作家ゴダールの「独自性」を保証するものである。隠蔽の意志のまったき不在が、起訴や逮捕や有罪判決から彼を遠ざけているのだが、その犯在歴は誰にも手にとるようによくわかってしまう。その意味で、ゴダールの『映画史』は、『映画泥棒日記』と呼ばれるにふさわしい自伝的なプライヴェート・フィルムだったといえるかもしれない。

そこで、『恋人のいる時間』を、30年後に『映画泥棒日記』を撮ることになる「独自」な窃盗犯の若き日の犯罪歴を鮮やかにいろどる作品のひとつとみなしてみるとどうなるか。

まず、音響の面でいうなら、ゴダールがこの作品のために新たに作り出したメロディーなどひとつとしてなく、その窃盗癖はあまりにも明瞭だといわねばならない。何しろ、近作の『JLG/自画像』から『フォーエヴァー・モーツアルト』にまで通じるベートヴェンのメロディーで始まり、ハイドンの主題をジャズ風にアレンジした『ラ・ジャヴァ』がそれにつづくといった案配なのだから。また、映像についてみれば、アラン・レネの『夜と霧』の一部がそのままスクリーンに映しだされたり、新聞や雑誌の広告ページが大きくインサートされたりしている。言葉についていうなら、ここでの作中人物たちが口にしているのは、ルイ=フェルディナン・セリーヌの『なしくずしの死』からの抜粋であったり、ラシーヌの悲劇『ベレニス』の台詞の一部であったり、女性週刊誌の短い記事の朗読であったりする。「脚本ジャン=リュック・ゴダール」といったクレジットが、すぐにも崩れるアリバイのひとつにすぎないことは誰の目にも明らかである。

実際、ゴダールは、物語の大枠をレヴィ=ストロースから盗んでおり、そのことをいささかも隠そうとはしていない。実際、この名高い文化人類学者が未開社会における女性の機能を摘出してみせたように、自分は同時代のパリという「未開社会」の神話体系における女性の役割をきわだたせてみたかったのだとゴダールはいっている。マーシャ・メリルの演じる20世紀の「未開」の人妻が、もっぱら分解された肉体の細部としてフィルムにおさめられていることも、それと無縁ではないはずだ。

実際、心理の描写ではなくその行動形態の把握をめざそうとするゴダールは、女性の肉体を「可視」/「不可視」という二項対立にしたがって三つの要素に還元している。まず、顔、首、背中、手、太股という「可視」的な要素と、乳房、性器という「不可視」の要素が分類される。そして、その中間に、サングラスの存在と不在によって「可視」的なものともなれば「不可視」ともなる瞳という曖昧な要素が、濃密な構造的な機能を演じるものとして浮上することになる。現代という「未開社会」における恋人のいる時間とは、「可視」と「不可視」の間を揺れ動く瞳によって象徴されるあやうげな時間にほかならず、サングラスが、その神話体系においては、いくらでも乗り捨てられるタクシーのように象徴的な機能を演じているのである。つまり、現代と「未開社会」における人妻は、肌には図形として残らぬ刺青としてのサングラスによって、二人の男性に同時に所属しうる女性となるだろう。そのとき、妊娠は、ひとつの家族の豊穣化とはいっさい無縁の営みとなるしかない。

ゴダールが文化人類学から盗んだものは、「未開社会」における神話分析の手法にとどまるものではない。彼は、アフリカの黒人社会にキャメラを向けるジャン・ルーシュが得意とした映像人類学の手法を導入することで、現代の「未開社会」たるパリのアパルトマンを横切る老若男女にキャメラを向け、シネマ・ヴェリテさながらのインタヴューさえ試みている。そこでは、神話の構造分析とはおよそ異質の生々しさが露呈されることになるのだが、他人の言葉という点で注目さるべきは、「知性」という断章に本名で登場しているロジェ・レーナルトにほかならない。

レーナルトを名乗ってマーシャ・メリルのアパルトマンを訪れ、彼女の夫であるフィリップ・ルロワとともに夕食をとるこの初老の紳士は、きわめて曖昧な自己同一性におさまる存在である。夫の仕事仲間として作品に登場しているその人物を演じているのは、まぎれもなく映画作家ロジェ・レーナルトその人だからである。1934年から短編を撮っていながら、長編としては『最後の夏休み』と『真夜中のランデヴー』の二本しか残していないのだから、彼を映画作家と呼ぶのは正確さを欠いているかもしれなし。彼は、アンドレ・バザンへの影響力によって『カイエ・デュ・シネマ』誌の方向を決めたといってもよい映画理論家でもあり、小説も書けば、短編映画を製作する小さなプロダクションの社長でもあった人間なのだ。ジョン・フォードを否定してウイリアム・ワイラーを擁護せよとバザンの耳元にささやいたのもレーナルトその人であり、その誤りは『カイエ』をしたたかに傷つけはしたが、しかし彼の残した二本の作品は、それをおぎなって充分な豊かさをそなえている。

この寡作な映画作家に対するゴダールの執着がどれほどのものであるかは、『映画史』や『JLG/自画像』での彼への度重なる言及をみれば明らかだろう。実際、『右側に気をつけろ』で唐突にその名を呼んで死を悼んだオディール・ヴェルソワが、傷つきやすい無垢な少女として映画にデビューしたのが『最後の夏休み』だったのであり、おそらく幼年期の恋心を描いたもっとも美しいこの作品が、第二次大戦後のフランス映画にもたらした爽快さは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」期に出現したジャック・ロジエの『アデュー・フィリッピーヌ』に匹敵するものがあったと思う。そのレーナルトが、1962年に映画のメタ映画性を優雅に検証した『真夜中のランデヴー』を十数年ぶりに発表したのだから、ゴダールが彼に出演を依頼したのは当然の成り行きかもしれない。だが、『恋人がいる時間』には、この人物が映画作家でなければならない文脈は存在しておらず、「知性」の断章でシネマ・ヴェリテ風のインタヴューに答える彼の言葉が、純粋に彼自身の言葉なのか、ゴダールとのしめしあわせによるものかはにわかには判別しがたい。

『勝手にしやがれ』のジャン=ピエール・メルヴィルいらい、初期のゴダールの作品に多くの映画作家が登場していることは誰もが知っており、あえて指摘するまでもあるまい。『軽蔑』のフリッツ・ラング、『気狂いピエロ』のサミュエル・フラーなどは、明らかに「彼ら自身」として画面に登場しており、決して饒舌とはいえない彼らの言葉が、ゴダールによって示された文脈にそったものであろうことはほぼ見当がつく。だが、『女と男のいる舗道』のブリス・パランや『中国女』のフランシス・ジャンソンのように、映画とは無縁の知識人もまた姿を見せ、ヒロインのアンナ・カリーナやアンヌ・ヴィアゼムスキーと長い会話を交わしており、それも多くの人が知っていることだろう。だが、後者の場合、おそらく演出家としてのゴダールが介入することは不可能に近く、その台詞のほとんどが「彼ら自身」の言葉であることはほぼ間違いない。そして、『恋人のいる時間』に登場するロジェ・レーナルトは、キャメラを見据えるその表情と声の抑揚からして、ブリス・パランやフランシス・ジャンソンの場合と同様、ほとんど「彼自身」の言葉と解釈することができる。

「自分が懐疑主義者だとはいうまいが……」とことわったうえで、「妥協というものは、知性的な活動にあってもっとも美しく、もっとも勇気のいるものなのだ」だの、「この世界は完全に不条理なものではないといいつづけたい」だのと口にするこの作品のレーナルトは、映画作家というより、フランス伝統のユマニスムを体現する人物のように思える。その意味で、断章として「知性」と訳しておいた言葉を、ゴダールが「聡明さ」の意味でこの作品に挿入していると考えたい誘惑にかられるのだが、最後の言葉はそれを裏切っている。「60歳という年齢とともに、ときどき知性に休息を与えたい」といってから、「自分にそんなことが可能かどうか自信はないが、分別のある若者と気狂いじみた老人を愛さねばならないのだ」と言葉を結ぶとき、それをゴダールが自分の言葉にしたがっていることだけは確かである。

だが、ここで見落としえないのは、レーナルトの声の抑揚である。「レーナルトのすべては、彼の知的で鋭い声にあり、マイクロフォンの機械仕掛けがそれを腐食させることはいっさいないだろう。それほど、彼の声は、精神の動きに同調している」とアンドレ・バザンが賛嘆したその声こそ、ここでのゴダールが自分のものにしたかったものなのだ。『恋人のいる時間』は、その「知性」に同調した音響を巧みに盗むことで、映画泥棒としての彼の勘の良さを証明することとなったのである。実際、『映画泥棒日記』としての『映画史』が撮られてしまったいま、ロジェ・レーナルトの声と言葉は、『恋人のいる時間』の突出した細部として見るものにせまってくる。

最後に一言。ゴダールの作品は、他人の映像、他人の音響、他人の言葉によって活気をおびると冒頭に書いたが、それを、引用やパロディーの手法の重視によるポストモダン的な作風の擁護だと思うことだけは避けねばなるまい。これは、映画においては、むしろ「古典的」ともいうべき正統的な姿勢なのだ。実際、映画には、自分の映像、自分の音響、自分の言葉など存在したためしがない。あらゆる映画作家は、他人の映像、他人の音響、他人の言葉でしかないものと向かい合うことで初めてキャメラをまわすことができるのだ。『映画泥棒日記』の作者は、その真実のみをつぶやきつづけている。

 

執筆年:2002年
初出:ジャン=リュック・ゴダール『恋人のいる時間』プログラム

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