「馬など、どこにもいはしない」とゴダールはつぶやく

蓮實重彦

あたかもその光景をキャメラにおさめることが映画作家であることの決定的なあかしだとでもいうかのように、ジャン=リュック・ゴダールは、二頭の馬が寄り添うようにして草をはんでいる田園風景にレンズを向け、ごく短かなショットとして『勝手に逃げろ/人生』の冒頭近くに挿入している。馬たちののどかな憩いの光景のインサートが、おそらく二度と姿をみせまいことは誰にもほぼ想像がつくので、苛立たしげに受話器を握り、ごく自然に罵りの言葉を口にしてしまう男女の孤立無援の表情ばかりを見せられていた者は、思わずあっと息をのむ。だが、それにしても、なぜ、唐突に馬なのか。

どうやら舞台はスイスの地方都市らしいので、近郊の牧草地に馬など数頭たたずんでいたとしてもいっこうに不思議ではない、という考えもなりたつ。だが、そんな無害な家畜たちを被写体としてキャメラを構えたものの背後に、悪意も、苛立ちも、悪戯心もまるで感じとれないことが、どうも不気味なのだ。だからといって、このショットが、都市の喧噪を離れた田園生活の静穏さといったエコロジスト的メッセージを含意しているふうにもみえない。事実、この映画に登場する男女は、これまでのゴダールにしてみればいくぶんか緑がかちすぎているかと思われるこの舞台装置にあってさえ、いつものように、救いようのない傷つけあいを演じている。見る者が戸惑うのは、馬たちを構図の中心にとらえたこのショットの、現代生活の陰惨さからは思いきり遠い、嘘のような透明さなのである。

たとえば、デイヴィッド・W・グリフィスの流れをくむハリウッドの古典的な映画に挿入されたとしても、そのフィルム的な持続を断ち切ることなどなさそうな、時間を超えたほとんど普遍的とさえいえそうな何かが、このショットにみなぎっている。もし、こんな画面がしばらく続き、草原に寝そべっていたり、足速に視界をかけ抜けたりする馬の画面とともに編集されていたりすれば、二度目の処女作だとゴダール自身がいうこのフィルムは、たとえば「香りも高きケンタッキー」のようなジョン・フォードのサイレント映画の馬たちと、いとも親密な交歓を演じ始めてしまうかもしれない。このショットの超時代的な透明感は、それほどまでに深い。

もちろん、もう少し被写体に近づき、毛並みの艶までフィルムに定着させてもよかったのではないか、といった感慨もきざさぬではない。だが、それにしても、ふとフォードにおける屈託のない馬たちの群像を想起させずにはおかぬほど、この二頭の馬の固定ショットには、構図といい、挿入の呼吸といい、映画の考古学的な恍惚へと見るひとを導く何かがみなぎっているのである。そんなショットが、なぜゴダールの第二期の始まりをつげる『勝手に逃げろ/人生』にまぎれこんでいたりするのか。

ゴダールは馬も撮れるという思いもかけぬ事態に不意撃ちされ、同時に、だからこそ彼は間違いなく映画作家なのだと安堵したりもするわれわれの視線は、その瞬間から、ひさかたぶりにゴダールのキャメラの前にたつ職業的な俳優たち――『天国の門』のハリウッド的冒険から帰還したばかりのイザベル・ユペール、トリュフォーとゴダールの間を行き来するナタリー・バイ、そして、ムッシュー・ゴダールと呼ばれる自分の役柄に最後まで慣れることがなかったかにみえるジャック・デュトロン――を、どこかしら生きた動物であるかのようにながめ始めてしまう。

だが、この映画の人間について語るのは、まだ少しばかり早すぎるように思う。というより、ここにはたして人間がいるのだろうか。ときにギクシャクしたスローモーションでとらえられるナタリー・バイの自転車の走行ぶりや、殴られるたびに豊かな髪をなびかせてみせる正体不明の女や、いきなり宙を舞うように抱擁しあう男女――ジョン・フォードの『駅馬車』の落馬シーンのように、馬の習性を心得たスタントマンが必要かと思われるほど、ここでの愛撫は激しく危険なものにみえるのに、ナタリー・バイとジャック・デュトロンというスターがみずからそれを演じている――の床での転がり方も、やはり生きた動物のそれのように見える。

そもそも、この映画には、露呈された女陰とのコミュニケーションを得意げに達成しているらしい何頭もの乳牛がすでに登場している。それに、やがてカフェのカウンターでクローズアップされるときに、その化粧の濃さから、零落した高貴な女性とも場違いな高等娼婦ともみえてしまう派手な衣装の年齢不詳の女が、思い詰めた歩調でどこへともなく歩み去ってゆく姿を遙かにとらえた田園地帯のロング・ショットで、あたかも彼女が肩にまとった極地の小動物の毛皮のマフラーに惹きつけられるかのように、一頭の牛が柵のむこうからゆっくり近づいてくる光景など、何ともユーモラスなのである。だから、ここでは、あくまで動物のことを語るべきなのだ。

実際、たがいに相手のたたずまいを模倣しあっているかのように寄り添う二頭の馬をとらえた画面は、ゴダールの二度目の処女作の撮影を祝福するかのように、いくぶん場違いな印象を与えはしても、それがまぎれもなく映画の画面であることの誇り高い生なましさをあたりに波及させている。この屈託のない馬たちは、男女の愛や家族のきずなさえあっさり崩壊してしまいそうな人間たちの孤独な日々の闘いに、ふと走り抜ける爽やかな風となって見る者の緊張をほどくといった機能以上の何かを演じながら、ひたすら突出しているのである。この二頭の馬は、いったい親子なのだろうか、夫婦なのだろうか、それとも恋人たちなのだろうかなどと問うたりする暇も与えぬまま、ただ、意味さえ超えたショットとして、見るものを戸惑わせ、そして安堵させる。

いずれにせよ、こんな光景への詳細な言及が、ジャン=クロード・カリエールが書いたとされるシナリオに読みとれるはずもなかろうし、また、あらかじめこんな瞬間をねらってキャメラを構えていたゴダールの目前で、たまたま二頭の馬が理想的な構図におさまってくれたというのでもまずなかろうと思う。おそらく、少人数のロケ隊がどこへともなく移動している途中に、自動車の窓から、ふとゴダールの目にとまり、その場で不意にキャメラを回すことではじめて成立したショットであるようにみえる。こうした即興的な対応だけが、生きた動物たちにふさわしいやりかたなのであり、だから題名に含まれる『人生la vie』とは、キャメラがとらえる人間たちの容貌によって表象されるものの次元にとどまらず、それを記録するキャメラの生きた機動性に対する賛辞であってもおかしくはないとさえ思われてしまう。

それにしても、これは朝早くのことだろうか、それとも夕暮れどきなのだろうか。淡いななめの光線があたりをおおう草々にいくぶんか湿ったつやをおびさせ、遠くに見える大きな樹木の茂みを、ぼんやりとけむらせている。およそおしつけがましさを欠いた鈴の音が画面の奥に低く小さく響き、ややあってから、それにかさなりあうようにして、名も知れぬ鳥のさえずりが聞こえてくる。

たしかに、このショットは、都会の雑踏からは思い切り遠い田園地帯ののどかさをきわだたせているかにみえる。事実、ショットの配置としては、ナタリー・バイが、身につけたばかりのジーンズのファスナーをしめながら(その乾いたもの音が、鳥のさえずりを一挙に遠ざけてしまう)窓辺にたたずむショットにつながっているので、それが彼女の視界に拡がる風景だとする解釈もなりたたぬこともなかろう。映像による表現から言葉の仕事へと転身しようとしている彼女の心をなごませる光景としては、申し分ないものだからである。

だが、その種の説話論的な因果性を断ち切るような、むしろ排他的ともいえる鋭利さがこのショットにはみなぎっている。たった二頭の馬が、いかにも無防備にこうべをたれて牧草をはんでいるだけなのに、そこには、物語の縦糸と横糸がいくえにも紡ぎこまれた過剰な何かが、その過剰さこそ映画だとつげているかのように、見る者の視線を甘美に誘いつつ、厳しく瞳から遠ざかってしまう。だからわれわれは、薄暗いカフェでコーヒーを注文しながら、「あの音楽は何なの」とたずねずにはいられない不安げなナタリー・バイのように、「あの馬は何なの」とつぶやくしかない。だが、おそらく、ゴダールは、音楽など聞こえてはいないと律儀にいいはるウェイトレスのように、「馬など、どこにもいはしない」と答えるだろう。

馬など、どこにもいはしない。なるほど、そうかもしれない。事実、『勝手に逃げろ/人生』を見て、この二頭の馬のイメージを鮮明に記憶している者など、ほとんどいないかもしれない。にもかかわらず、ゴダールのにべもない否認に臆することなく「あの馬は何なの」とつぶやき続けねばなるまい。すると、そのつぶやきに招かれたのだろうか、『ゴダールのリア王』に一頭の白い馬が忽然と姿を見せ、『勝手に逃げろ/人生』のナタリー・バイの自転車の走行を模倣するかのようなギクシャクとしたスローモーションで、冬枯れの湖畔をかけ抜けてゆくだろう。ゴダールは馬も撮れると誰もが戸惑いながら口にしたところで、当の映画作家ゴダールは、「馬など、どこにもいはしない」とぶっきらぼうに答えるばかりだ。

いま、ゴダールを見ることは、この答えを欠いた会話を鸚鵡がえしに繰り返すこと以外の何ものでもなくなっている。この無限の反復に耐えられる者だけが、なお、映画を見続ける権利を保障されている。 
 

初出:『勝手に逃げろ/人生』公開時のパンフレット(広瀬プロダクション)

Copyright (c) HASUMI Shiguehiko & MUBE