『ゴダール・ソシアリスム』

蓮實重彦

さる12月3日に80歳の誕生日を迎えたジャン=リュック・ゴダールの六年ぶりの新作『ゴダール・ソシアリスム』(2010)が、長編第1作『勝手にしやがれ』(1959)の公開から半世紀後のいま、日本で封切られる。合衆国はいうまでもなく、ヨーロッパの国々でさえほとんど一般公開されるあてのない作品である。カンヌ国際映画祭では監督不在のまま上映されたいわくつきの作品がごく普通に見られるのだから、ゴダールと日本との浅からぬ因縁をまずは祝福したい。カンヌの事務局に欠席の通知を書き送った彼自身の書簡には小津安二郎監督の肖像写真が同封されていたというが、本年度のアカデミー賞名誉賞の受賞式にも出向かなかった彼は、いったい誰の肖像写真をそえて詫び状を送ったのだろうか。

マノエル・デ・オリヴェイラ監督は102歳の今も新作を準備中だし、ゴダールと同年齢のクリント・イーストウッド監督も毎年新作を発表しているのだから、監督が79歳だということだけが話題になるのではない。驚くべきは、この作品にみなぎっている不気味なまでの若さだ。HDカムで撮影された映像と音響はかつてない鮮度で神経を刺激し、地中海のうねりは海神ポセイドンの怒りを、耳を聾する風音は風神アネモイの吐息を、男女の表情はロゴス=真理を直裁に画面に招き入れる。そんな瞬間を映画で体験したこともなかったので、誰もが映画生成の瞬間に立ち会っているかのように興奮するしかない。
では、その主題は何か。ヨーロッパである。ギリシャ以来の文明をはぐくんできた地中海、といってもよい。あるいは、それなくしては西欧が成立しがたい「傲慢さ」だといえるかも知れない。題名のソシアリスム、すなわち社会主義は、民主主義が古代ギリシャで生まれたように、まぎれもなく近代ヨーロッパで生まれた。帝国主義、資本主義、共産主義、等々、主義と呼ばれるものの大半もそうなのだから、ヨーロッパ的に思考すれば世界の誰もが普遍を体現しうるはずだと信じている人々の無意識の傲慢さが主題なのである。

勿論、ゴダールはその傲慢さを批判する。地中海の豪華客船を舞台に過去の戦争犯罪を糾弾し、フランス寒村のガレージでは民主主義の真の意味を問いなおす。零や幾何学が西欧的な起源など持ってはいないと想起させ、パレスチナ紛争こそヨーロッパ的な傲慢さの犠牲ではないかとも指摘する。だが、グローバリズムにも向けられたその批判は必ずしも反西欧的なものではない。ゴダールは、傲慢な人々が見落としがちな真のヨーロッパと、文学、絵画、音楽などを通して向かいあい、より純度の高い傲慢さを身にまとって自堕落に共有された傲慢さを撃つ。ゴダールがときに難解といわれるのは、その姿勢の屈折による。映画を発明したのはリュミエール兄弟でもエディソンでもなく、エドワール・マネだという名高い『映画史』(1988-98)の断言こそ、高度の傲慢さにほかなならい。

プロテスタント系の家庭にパリで生まれ、スイスとの二重国籍を持ち、過去30年ほどレマン湖の畔に暮らしているゴダールはその二重性を誇りにしているが、その誇りはたちどころに傲慢さと見なされ、彼を孤立させる。その孤立を「私は映画のユダヤ人だ」というきわどい比喩で語ったりするので、ユダヤ系の映画作家からは抗議文が寄せられるし、合衆国の高級紙も彼を反ユダヤ主義者ときめつける。だが、臆する風も見せない彼は、この作品でも、ハリウッドを作ったのはヨーロッパからの亡命ユダヤ人ではないかと挑発をやめない。傲慢さを批判できるのは自分だけだといっているかのようなゴダールは、傲慢な映画作家なのだろうか。それとも、語の純粋な意味での自由闊達な個人なのだろうか。

初出:朝日新聞 2010年12月17日(夕刊)

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