黒沢清『アカルイミライ』

蓮實重彦

『回路』(2000)で20世紀に別れをつげた黒沢清は、近年の彼には稀なことともいえる二年もの沈黙の後、『アカルイミライ』(02)をたずさえて21世紀に足を踏み入れる。一人、また一人と姿を消し、日本の首都からすっかり人影が絶えてしまった前作の最後を見とどけた者に、この題名はいささか奇妙に響く。勿論、黒沢が未来は「明るい」といっているのでなかろうことは誰にも察しがつく。だが、「暗い」はずの未来をあえて「明るい」と呼んでみせるシニカルな反語精神が彼のものではなかろうことも、たやすく予測できる。かくして、人は、ひとまずこの題名を宙に吊ったまま画面と向き合わざるをえない。

全篇がデジタル・カメラで撮影されたこの新作からは鮮やかな色彩が周到に排され、戸外と屋内とを問わず、いたるところに黒い影が拡がりだしている。その翳りをおびた空間の中心に小さな水槽が据えられ、半透明のクラゲがゆらゆらと揺れている。黒沢清は、そのまわりに二人の青年を配する。この海水産の刺胞動物を飼育しているのは、都心を離れた零細工場で働く青年(浅野忠信)である。彼は、悪夢にうなされる情緒不安定な年下の仕事仲間(オダギリジョー)に発作的な振る舞いを思いとどまらせようと、指の動きで行動の指針を示すことを提案する。その黙契をのぞけば、二人はごく普通の若者に見える。

クラゲの無時間的なたゆたいに見とれて思わず水中に指をさし入れようとする若い友人に、飼い主は触るなと穏やかに警告する。どうやら、それは毒クラゲであるらしい。黒沢清にふさわしい主題が視界に浮上するのは、その瞬間である。

実際、『回路』の作者にあってはいたるところで頑なに接触が禁じられており、男女が接吻しあうことも、抱擁しあうこともまずないといってよい。だが、それは、この映画作家の性愛に対する不信を意味しているわけではない。触れあうこともないまま何かが感染してしまうことの恐怖に、彼の演出は賭けられているのだ。『Cure』(97)がそうであるように、危険な存在と素肌で接しあったわけでもないのに何かが伝搬し、人々は思考と行動の自由を奪われてしまう。『回路』においても、そのようにして人間の消滅があたりに蔓延していったのであり、男も女も等しくその犠牲となるほかはない。しかも感染の過程は目に見えないので、何かが起こりつつあるという気配ばかりが画面を鈍く震わせる。黒沢が「恐怖映画」作家として分類されうるのは、その限りにおいてである。彼にあっては、あたかも機械のような反復がこの世界の原理であるかのように、誰もが、ふと他人の思考や行動を模倣し、それをそっくり自分のものにしてしまう。この心理を欠いた反復が、個人と社会との関係を視界から曖昧に遠ざけ(『カリスマ』〔99〕はポピュリズムの蔓延を正面から批判してはいない)、黒沢清をいきなり「善悪の彼岸」に位置づけることになる。

『アカルイミライ』の毒クラゲの飼い主も、「善悪」を超えた存在である。彼は、あるとき年下の友人にその飼育を託し、不意に姿を消す。残された青年は、工場で味わう日々の屈辱にたえきれず、上司の殺戮を思い立つ。だが、あたかもその凶暴な意志が他人に感染していたかのように、棍棒を手にその家にかけつけたとき、一家はすでに惨殺されている。そのとき友人の失踪の意味を理解する彼は、念入りに餌を調合し、クラゲが淡水でも生きてゆけるように、飼育に徹するだろう。姿を消した友人は逮捕され、指先を「行動せよ」のサインにふさわしく針金で固定し、獄中でみずから縊死する。その瞬間、現在のさ中にうがたれたブラックホールのように「未来」が螺旋状にせりあがり、残された青年は、黒々とした時間を自分のものにし始める。

自殺した友人の父親(藤竜也)と奇妙な共同生活を始める彼は、それが亡き友の意志だとも知らぬまま、発作的に毒クラゲを下水に放つ。暗さにまぎれて増殖した刺胞動物は東京の川という川に拡がりだし、不気味に赤く発光しながら白昼の水面を占拠する。ゆらゆらと海をめざすクラゲの大群に興奮した父親は憑かれたように堤防を疾走し、青年が不安げにその跡を追う。二人が河口にたどりついたとき天候は急変しており、冷たい雨があたりを濡らしている。思わず川に踏み込み、クラゲに触れて意識を失う父親を土手に引き上げる青年は、濡れた岸辺に二人して倒れこみ、動こうともしない。消耗だけが消耗を超えうるという確信が、縊死した青年から彼に感染したかのようだ。

頑なに接触を排してきた黒沢清は、いま、初老の失神者を胸元に抱えたまま川岸の草むらに横たわる青年にキャメラを向けている。象徴的な意味の重みでたわむこともなく、無償の審美性からも思い切り遠いこの単純な画面には、肯定へと人を誘う強度がみなぎっている。人は、何の脈絡もないまま、ペッキンパーの最後の西部劇やアルドリッチの晩年の活劇に漂っていた、あのニヒリズムには行きつくことのない徒労感に似たものをこの画面に感じ取る。勿論、『アカルイミライ』には、より新鮮なイメージと音響とがみなぎっている。それが「明るい未来」を約束するか否かは自分にもわからないと黒沢清はつぶやくに違いない。だが、彼の新作とともに、日本映画が「栄光の時代」(溝口、小津、黒澤明……)とはおよそ異質の世紀に足を踏み入れたことだけは間違いないと私には断言できる。

Copyright (c) HASUMI Shiguehiko & MUBE