小津安二郎(1986)

蓮實重彦

撮る映画なく――戦中シンガポールでの幸福

昭和18年6月、小津安二郎はシンガポールへと向けて日本を離れた。その年の12月12日に40歳になろうとしている小津は、処女作『懺悔の刃』(昭和2年)以来15年の監督生活を送っていながら、前々年の『戸田家の兄妹』と前年の『父ありき』によって初めて〈客の呼べる〉監督になったばかりのところだ。その彼に、松竹は戦争映画の撮影を依頼する。すでに昭和15年、『彼氏南京へ行く』として書きあげられていた作品を『お茶漬の味』として撮ろうとしていながら、出征兵士をお茶漬で送ろうとする脚本が内務省の事前検閲で却下されている小津としては、斎藤良輔と秋山耕作とともに、ビルマ作戦を扱った『遙かなり父母の国』という戦争映画の脚本を描きあげている。それを、興行的にも成功した『父ありき』の笠智衆、佐野周二のコンビで、シンガポールを本拠地としてオール・ロケで撮りあげようというのだ。18年の初めには城戸四郎専務が南方視察を行なっているので、松竹と軍部との間に何らかのとりきめがあったに違いない。

シンガポールでの小津の肩書きは陸軍報道部映画班所属の軍属。昭和18年8月にはビルマとの同盟条約調印を行なう予定でいる政府にとって、『遙かなり父母の国』は格好のプロパガンダ映画となるはずのものだった。当時の映画雑誌の消息欄には「新作準備中」としか記されてはおらず、その詳細が全く語られていないところをみると、軍属小津安二郎のシンガポール派遣は軍事機密に属するものだったのかもしれない。だが、残されている資料からすると、ビルマ作戦を主題にしたという『遙かなり父母の国』は、その題名が告げているように、戦意高揚を目ざす映画にはとうていなりそうもないものだった。兵士たちがひたすら行進し、故郷を思う。派手な戦闘場面なども含まれてはいなかったようだ。もっとも、だからといって、小津が厭戦映画を撮って軍部に反抗しようと思ったわけではない。ホームドラマを中心とした松竹の体質が、軍部への協力という点ではなかなかうまく機能せず、戦争映画を量産した東宝にくらべて不利な立場にあった会社の幹部の要請を請け、自分なりに義務を果たそうとしていたのだと思う。

だが、小津がシンガポールに着いたとき、戦局は悪化していてとうてい映画など撮りうる状況ではない。昭和18年6月といえば、アッツ島守備隊の玉砕直後のことで、太平洋の制海権はすでにアメリカ軍に移っている。監督に続いてシンガポールを目指したスタッフ一行を載せた船は米軍の攻撃をうけ、かろうじてフィリピンに避難して九死に一生を得る。彼らは危険を冒して何とかシンガポールにたどりついたのだが、小津は、すでに撮影の不可能性を察知していたらしい。キャメラマンの厚田雄春に依頼して中止の電報を打っていたのである。だが、〈民間人〉の通信は後まわしにされた上に開封されたりして、スタッフの乗船に間に合わなかった。そのことを知らされた小津安二郎は「目を真っ赤にして」怒ったという。撮影中にもめったにどなられた記憶のないキャメラマンの厚田雄春は、あのときの小津先生だけは本当に怖かったと当時を回想している。

こうして小津組のスタッフはシンガポールに集結しながら、撮るべき映画はない。小津が監督になってから2年間も映画を撮らなかったのは、昭和12年の末から14年にかけての中国での軍隊生活を除くとこれが初めてである。チャンドラ・ボースのインド独立運動の宣伝映画をという報道部の案も検討されたが、実現せずに終わる。ちょうど同じころ溝口健二もまた陸軍報道部の依頼をうけて中国戦線を舞台にした映画を構想し、大陸を視察旅行しているが、こちらの方も撮影されることはなかった。ただ、溝口健二の場合は、日本に帰って敗戦までに何本かの作品を撮ったのだが、小津にはその機会がなかったという違いがある。そしてそれは、小津にとって幸福きわまりないことであった。

開かれた国際性――幸いしたアメリカ映画体験

撮影の機会を奪われた小津安二郎がシンガポールで過ごした2年間は、なぜ、幸福なものだったのか。ひさかたぶりに、多くの映画を見る余裕が生まれたからである。では、彼は、どんな映画を見て時を過ごしたのか。接収されていたアメリカの映画である。それまではせいぜい1年に7、8本だったのが、「最初の1年は百本からのアメリカ映画を見た」というのだ。

いうまでもなく、昭和16年12月8日いらい、日本では1本のアメリカ映画も公開されていない。ところで報道部映画班員という身分であれば、だれでも自由に敵国の映画を見ることができたのだろうか。そうではない。すでに戦況が悪化しており、接収された敵国映画のフィルムは、溶かして塗料にするための貴重な資材だったのである。小津は、そうしたプリントをひそかに借り出し、映写機の点検と称して秘密の試写を行なわせた。映写室の責任者となったキャメラマンの厚田雄春は、小津の求めに応じて上映作品のリストを作成し、巡察に回ってくる将校の目をかすめながら、深夜の上映会を主催する。

終戦後に帰国した小津が回想しているところによると、ウィリアム・ワイラーとジョン・フォードをよく見ていたらしい。ただし、フォードでも『モホークの太鼓』はどうも芳しい出来ではなく、キング・ヴィダーの『北西への道』の方が遙かによいと的確な評価を下している。「併し監督があんまり見すぎるといけませんよ、いたずらに眼ばかり肥えてしまってね」という言葉は、最良の機材を駆使してのハリウッドのキャメラマンの仕事と、日本の撮影機具の貧弱さとを比較してのことだろう。

だが、軍国主義的とはいえないにしてもプロパガンダ映画には違いない作品を撮りに来たはずのシンガポールで、軍部に隠れて敵国の映画をひたすら見続けている日本人の映画作家という光景ほど奇妙なものもまたとあろうか。しかし、そうした自分自身の矛盾した立場に何の拘泥もなく居座ってしまうところがいかにも小津的なのだと思う。

おそらく彼は、第二次世界大戦中に、最も多くのアメリカ映画を見た日本人なのである。これは、エルンスト・ルビッチによって映画に目覚め、初期にはかなりの数のハリウッド流の喜劇や活劇を撮っている小津にしてみれば、当然のことかもしれない。だが、こうしたシンガポールでのアメリカ映画体験が彼にとって幸いしたいまひとつの理由は、初期いらい長らくその撮影助手をつとめ、『淑女は何を忘れたか』(昭和12年)でキャメラマンとして独立した厚田雄春がたえず傍らにいたことである。

厚田雄春は、戦後の小津の作品のほとんどでキャメラを担当し、晩年の傑作の独特なキャメラワークによって忘れがたいイメージを残しているが、最盛期のフォードやワイラーの優れた映像のかずかずを小津とともに彼が見ていることは、その後の緊密な協力ぶりにどれほど有意義であったかわからない。

小津安二郎と厚田雄春とは、太平洋戦争の戦局の悪化を、願ってもない休暇にかえることができたのだ。

小津が最も驚いたのは、オースン・ウェルズの『市民ケーン』である。「チャップリンが62点ぐらいだとすると此奴は85点ぐらいなんだ」という帰国後の言葉は、小津が、世界映画史で最も早くオースン・ウェルズの偉大さを評価した映画作家であることを意味している。サイレント喜劇の最高の達成として深い敬意をいだいてはいたが「トーキーとは融和しない」チャップリンの形式にちょっとした不満をも感じていた彼は、大戦後のフランスでウェルズ評価の波が高まる数年前に、「いままで見たアメリカ映画のうちでは素晴らしい映画の一つ」だと自信を持って宣言しているのだ。この自信こそ、小津安二郎の開かれた国際性にほかならない。ちなみに、『市民ケーン』の日本初公開は、小津安二郎の死後3年目にあたる昭和41年のことである。

誤解を越えて――今、作品の同時代性を発見

サンフランシスコ講和条約が締結された昭和26年は、日本映画史にとって画期的な年となる。黒澤明の『羅生門』がヴェネチアでグランプリを獲得したのもその年だし、木下恵介が初の国産カラー映画『カルメン故郷に帰る』を撮り、復興なった映画界の活力を示したのもその年である。翌27年には、吉村公三郎の『源氏物語』がカンヌで注目され、キャメラマンの杉山公平が撮影賞を受賞、溝口健二の『西鶴一代女』がヴェネチアで監督賞に輝く。

こうした一連の高い国際的な評価は、この時期の日本映画の充実ぶりと、そこにいたる数十年間に傾けられてきた努力の総体とをかなり正確にとらえたものだといえる。事実、日本映画は、昭和26年から35年にかけての十年間、質量ともにかつてない隆盛ぶりを示す。観客動員数と製作本数は年ごとに増加し、国際映画祭で注目された作家たちも数知れない。それは文字通り「黄金の50年代」にふさわしい豊かな収穫期といえよう。

戦前から仕事をしていた溝口、小津、あるいは成瀬巳喜男といった作家たち、戦時中にデビューした黒澤、木下、吉村、今井正、さらには戦後になって監督となった市川崑、新藤兼人らが、思い思いの題材を取りあげ、戦前からそれぞれの撮影所に蓄積されていた技術の粋を尽くして世界映画史に類をみない黄金時代を築きあげたのだ。ハリウッドでのスタジオシステムが政治的かつ経済的な諸事情から崩壊の危機に瀕していたことなど嘘のように、だれもが充実した仕事を示していたのである。

そうした中にあって、小津安二郎の位置はきわめて曖昧である。彼の戦前の仕事ぶりからして、必ずしも多くの人を納得させたわけではない。『長屋紳士録』と『風の中の牝鶏』の後、小津は昭和29年に笠智衆、原節子の父娘を中心に据えた『晩春』を撮り、興行的にも評価の上でも完全なカムバックを果たし、以後『麦秋』、『東京物語』へと続くいわゆる戦後の〈小津調〉を完成する。

名高いローアングルによる固定画面、厳密きわまりない編集のリズム、独特の台詞まわし、徹底した演技指導など、だれもが小津的なものとして思い描くこうした細部は、完璧な美の構図におさまる。

だが、と、小津的な世界の静けさを前にいら立つ者たちはつぶやく。こんな動きを欠いた世界が戦後日本といかなる関係を持つというのか。小津は、はたして戦争の悲惨、戦後の混乱をかいくぐって来たのだろうか。未来への展望も過去への批判的な視点もないものに、現在が把握しうるはずがない。時ならぬ白樺派的な余裕と達観の回帰、あるいは、伝統的な美意識への骨董愛好家的な遁走。いずれにせよ、時代の最先端に位置するものと自覚していた感性の持ち主から、小津安二郎は、時代錯誤の審美家として軽蔑されるほかはなかった。これは現代日本とは無縁の表現だとする批判に対して、小津は、豆腐屋は豆腐を作るのみだと執拗に答え続けたのである。

ところで、肯定するにせよ否定するにせよ、小津の映画がきわめて日本的な世界に自足したものでとうてい外国人の観賞に耐えうるものではないという考え方だけは一致していた。だから、黒澤明や溝口健二が高く評価を受ける国際的な舞台へと小津の作品が送り出されることは稀であった。激動の時代が影すら落とすことのない日本的な日常生活の退屈な反復ぶりを飽きずに描き続ける小津の映画には、普遍的な価値は見いだせないと断じられたのである。彼がこうむった評価は、博物館の陳列ケースにおさまった古美術に対する賛嘆の念に似て、なるほど価値は高かろうが、もはや現実に働きかける力を失ったものの愛惜の念を越えるものではなかったのだ。

だが、何という誤解だろう。おそらく、世界の監督の中でオースン・ウェルズの『市民ケーン』の偉大さを認めた人物が、あっさり伝統的な美意識に撤退し、骨董品作りに精を出したりするだろうか。

いま、世界は、小津安二郎の映画を生なましい同時代的な作品として発見しつつあるところだ。

究極の自由さ――形式による自己拘束で到達

小津安二郎は何よりもまず映画作家である。そのことの意味を誤解しないでほしい。彼が映画を撮ったのは〈思想〉を伝達したり〈問題〉を解決したりするためではなく、映画という媒体に何が可能で何が不可能であるか、その限界をきわめつくす必要を感じていたからだ。その点で、彼は間違いなくオースン・ウェルズの同時代人である。

その作業を推し進めるにあたって、彼は、『市民ケーン』がアメリカの伝統的なジャンルであるサクセス・ストーリーを題材としたように、日本の市民生活の冠婚葬祭を題材とした。そして、オースン・ウェルズが意図的に時間を断片化したように、空間を意図的に均質化してみせた。意図的である限りにおいて、小津的な空間の均質化は、ウェルズ的な時間の断片化に似て不自然なものだが、その不自然さは、あらゆる実現に伴う本当らしさへの配慮の体系をあからさまに露呈させるための挑戦にほかならない。

そのため小津は、厳格な形式的な自己拘束をうけいれる。形式による自己拘束とは、形式主義の対極にあるべき自由への試みなのだ。それは、厳格さを介した解放の身振りだとしてもよい。だれもが映画の語る物語をごく当然のものとして容認しているとき、小津はたとえばふたりの人間がたがいに見つめあうという事実を納得させるために映画が発明した切り返しショットと呼ばれる嘘の手段をその限界点で崩壊させてしまう。それが、形式による自己拘束の希求する自由にほかならない。

たとえば、小津を見ることでおのれの映画的世界を築いた『パリ、テキサス』のヴィム・ヴェンダース監督は、「形式的厳密さを好む作家がその好みを徹底させた場合、逆に驚くべき自然に達し、ほとんど生なましいドキュメンタリーであるかのように思われてしまうことがある」という言葉で『東京物語』を絶賛しているが、それこそ、形式による自己拘束を介した自由への試みに対する深い理解を示す姿勢であろう。

現代フランスの知性を代表する世界的な哲学者ジル・ドゥルーズも、ほぼそれに近い視点から小津安二郎の現代的な意義を高く評価している。小津の偉大さは、何を考え、何を言ったかではなく、何かを考え、何かを言うことにまつわる諸々の不自由をつきつめ、考え、そして言うことそのものをめぐっての映画を撮り続けたことにある。いま、映画がごく自然に生産され消費される記号であることをやめ、多少の困難を伴うことなく撮ったり見たりすることが不可能になってきている折、世界の最先端に位置する映画人が小津に深い関心を寄せざるをえない理由はそこにある。

現在、小津の映画を上映すると年齢や性別を問わず多くの観客が小屋にかけつける。もちろん、こうした〈小津ブーム〉の背景には、社会の安定にともなう懐古趣味もあろうし、世界的な東洋趣味の流行もあるだろう。また、小津の世界的な再評価に少なからず貢献した理論家たちのうちには、その作品がいかにハリウッド的な規範から遠いかといった点に評価の基準を置いた人たちもいる。

だが、小津安二郎をその種の日本性の神話に閉じこめてはならぬと思う。彼が日本国籍を持った映画作家であったことはまぎれもない事実だが、彼が生涯を通じて試みた映画という形式による厳密な自己拘束は、彼を日本という国籍から自由に解放しているからだ。しかもその解放は、〈国際的〉というあの抽象的な形容詞のとうてい及ばない自由な世界に、小津安二郎を位置づけることになるだろう。

ヴィム・ヴェンダースは、その感動的な日記映画『東京画』で『東京物語』の作者に深いオマージュをささげた。現在公開中のダニエル・シュミット監督『トスカの接吻』のキャメラマンのレナート・ベルタは、去年の来日の折に小津のキャメラマン厚田雄春と出会い、その長いインタヴューをフランスの映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』誌に発表している。彼らにとって、小津は決して日本の巨匠ではない。映画史の先達であり、かつ偉大なる同時代人なのである。

 

『映画狂人、小津の余白に』より
初出:『読売新聞』夕刊1986年1月13日、14日、16日、17日

 

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